2012年06月23日

長唄のカラオケ「手習子」(調子=六本)

「五郎」のカラオケは松永和風師の写しでしたが、今回の「手習子」は、芳村五郎治師の写しにしてみました。参照音源は、かつて東芝レコードから発売されていたシリーズの中の一枚。現在は日本伝統文化振興財団がCD化して発売しています。

tenaraKR.jpg
(VZCG-6033)

立三味線は杵屋栄次郎師。青柳譜とは異なる手が何カ所かありますけど、全て音源の方を優先してます。

ちなみに、東芝の五郎治師シリーズは全部で10数枚ありましたけど、LPジャケットは、それぞれの曲の題材に因んだ文物をあしらったイラストでした。このイラストがとても良い出来で、CD化された後も、東芝が販売してた時はLPの縮小版だったから、このジャケットを買い集めるのも楽しみなような一面もあったのに、発売元が振興財団になってからは、予算か権利関係かの都合で、全て上記画像の統一デザインになってしまいました。残念な事です。

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今を盛りの花の山
(合方)
飽かぬ眺めの可愛らし


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2012年04月14日

長唄のカラオケ「鶴亀」(調子=五本)

それ青陽の春になれば

四季の節会の事始め

不老門にて日月の
光を君の叡覧にて

百官卿相 袖を連ぬ

その数 一億百余人
拝をすすむる万戸の声
一同に拝する その音は

天に響きて おびただし


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タグ:三味線 鶴亀
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2012年03月11日

長唄のカラオケ「五郎」(調子=六本)

 毎度お馴染み、長唄のカラオケですけど、今回のは今までとは作り方を違えて、四世・松永和風/初世・杵屋五三郎による「五郎」の演奏の写し(コピー)を試みてみました。参照した音盤は、コロムビアから出てるCD、定番Collection【長唄】(COCF-15273)。SP時代に録音されたものの復刻版です。

wafuKR.jpg

和風師は調子四本。私が自分用に設定したのは六本ですので、
・まずこのCDの音を長二度上にピッチシフトし、
・それをDAWに貼り、
・それを、なぞり弾き。
そうやって作ったのが、今回のカラオケです。流しバチとか、そういった個所はわりとテキトーなので、完全コピーと呼べるまでの正確さはないけれど、全体的には「ほぼ完璧、概ねそっくり」と言ってOKなものです。音程がアレな点はあいかわらずですが、そこは片目つぶって下さい。「間」に関して、ほぼ完璧という事です。

 手の型は、現行の「五郎」と異なる個所が複数あります(少なくとも、現行杵五派の稽古で教えてる手とは異なる)。これも参照音盤の完コピです。

 テンポは頻繁に伸び縮みし、大きく揺れているのですが、唄とお囃子が加わると、ちょうど良くなる。逆に言うと、唄/三味線/お囃子が合わさって出来上がってるものから三味線だけを抜き出すと、意外なほどフラフラで頼りなさげなのでありますね。

 尤も、SP盤というのは、その片面の収録時間は最大4分程度と短く、長唄みたいに長い曲はキリよく段落分けして収める必要がある。だから、この時代の録音物のテンポ設定や曲全体の尺は、奏者の意図や「普段通り」そのままの記録ではない可能性がある。信用し過ぎちゃダメだって事ですね。和風師の「五郎」のテンポが頻繁に変わるのも、普段からこうだったのか、それとも録音する際の諸事情のせいでこうなったのか、それは何とも判断付きかねるのです。

 でもまあそういった事も呑み込んだ上で、今回はともかく完コピしてみました。和風師をそっくり真似するための下地としては当然の事ながなら、非常に唄いやすいカラオケとなっております。

さるほどに
曽我の五郎時到は
倶不戴天の父の仇
討たんずものとたゆみなき
弥猛心も春雨に

濡れて廓の化粧坂
名うてと聞し少将の

(合方)


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2012年01月26日

長唄カラオケ唄っテストその4/外記猿(兼るマイクテスト)

 「越後獅子」の音ファイルに添えるための作文がまだ出来上がらないうちに、音の方は第四弾。今回のは前回にも増して録音期間が長くなってますが、作業日程は飛び飛びで、それほど根を詰めて録音したのでもないから、実際の作業時間はそれほど長くない、んじゃないかな。

というか自分、この、カラオケに唄を付けるシリーズにはもう飽きてきたっていう★

 「だいたいこんな感じ」で作ったカラオケですから、全体的なテンポ設定がおかしかったり、細かい部分のノリ/シメが良くなかったりして、だからこれを用いて満足のいく録音物を作るのは、無理ですな。そんな事はハナから分かってたのではあるけど、とくに今回のような、長唄の中でも浄瑠璃に接近してるスタイルの曲では、その至らなさを痛感。DAW上で切り貼り調整したり、タイムストレッチを掛けて全体的にテンポを落としてみたりと、けっこう加工した部分もあるのだけど、そんなナニでは賄いきれない所の方が多かったです。

*)ちなみにものすごく今さらですが、「羽根の禿」の後半が速すぎたのも、タイムストレッチ掛ければ良かった。なんでその時そうしようと思わなかったのか★

 だからもうそろそろ、カラオケで唄ってみるシリーズは切り上げにして、言い訳無しで作業する段階の方に移りたい。しかし長唄と一口に言っても、その中には色々な曲種が含まれてる(いくつかのサブ・カテゴリに分類される)。つまり、
・純然たる踊り地
・お座敷もの
・浄瑠璃に接近したもの
・めりやす
等々。そして、踊り地は更に、男女神仙老若硬柔公武町に区別され、更に作曲年代によって前/中/後期に分類される。この長唄の各タイプを一通り、カラオケにして唄を付けてみる……なんてのは無理な相談だからしないけど、一番ぎりぎりの大まかさで、あと三つ四つは作っておこうかと思ってるので、もうしばらくはこの、やる甲斐もない作業を続けるつもり。

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 それで今回のは「浄瑠璃に接近した長唄」であるところの「外記猿」。しかし浄瑠璃に近いと言っても、やはりこれは長唄なんだから、普通は長唄っぽく唄われるものです。しかしここでは、太棹でやる方の浄瑠璃に極力近づけるよう試みてみました。
 それでやってみて分かったのは、やっぱりこの曲、ぜんぜん浄瑠璃じゃないなっていう。作品中に「対話」がない。相異なる個性のせめぎ合い、といったようなものがない。そういう点で、近松門左衛門&竹本義太夫のコンビが作り出した義太夫節とは、全く異なるものである。そんな当たり前の事、やってみないと分からないのか?と思われちゃいそうですが、やってみないと分からないんですよわたくしめには★

 それともう一つ、「アウト・ドアな感じ」を出そうという狙いもあったです。江戸の芝居小屋に屋根が付いたのはいつからだったか、今ちょっと忘れちゃいましたけど、中村仲蔵の時代にはまだ屋根がなかった(んじゃなかったっけ?)。少なくとも、外記節が現役だった時代には屋根がなかった。それに、「外記猿」の主人公であるところの猿曳は、大道にて、世間の塵や埃を被りながら渡世する者である。その感じを出したかったんだけど、それもやはりと言うべきか、そういったリアリズムの類と細棹とは、どうやら相容れぬ仲のようであるね。

 そんなこんなで今回の録音は、かなり珍味な出来になってしまったと思う。私はこの曲がけっこう好きなだけに、至極ガッカリなのである。


■2011年11月27日〜2012年1月22日録音

まかりいでたる それがしは
ずんと気軽な 風雅者
日がな一日小猿を背なに
しょいからげてな
姿如法や なん投げ頭巾

夜さの泊まりは どこが泊まりぞ
那波か名越か
室が泊まりぞ 室が泊まりぞ

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泊まりを急ぐ後より
小猿まわせや猿回し
おおい おおい
と、招かれて 立ち返りたる半町余り
玄関構えし門の内
女中子供衆とりどりに
所望 しょもう
の言葉の下 猿の小舞を始めけり

(合方)

やんら目出度やな 目出度やな
君が齢は長生殿の
不老門の御前を見れば
黄金の花が 咲きや乱るる
咲きや乱るる

旦那のお前でお辞儀をせ
ころりとせえ
ころりやころりや やっころりと
子持ち寝姿お目にかきゃ
さっても粋な品物め

(合方)

これは浪花に浮名も高き
瓦橋とや油屋の
一人娘にお染とて
年も二八の恋盛り

内の子養いの久松と
忍びしのびに寝油を
親たち夢にも白搾り

さあ浮き名の立つは 絵草紙へ

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松の葉越しの月見れば
暫し曇りてまた冴ゆる
月は片割れ宵の程
船の中には何とおよるぞ
苫を敷寝の舵枕
ひんだの踊りは一おどり

皐月五月雨 苗代水に
裾や袂を濡らして
しょんぼりしょんぼりと
植えい植えい早乙女

(合方)

げに面白や 踊るが手元
辰巳午や春の小馬が
鼻を揃えてまいりたり
鼻を揃えてまいりたり

(合方)

猿に烏帽子を着せまいらせて
猿に烏帽子を着せまいらせて
勇む神馬の手綱執らしょう
手綱執らしょう
のんほのいよえ

(以下略)


使用マイクについて;

■唄の録音に使用したのはRCA BK-5B

■マイクと口の距離は20〜30cm
■口の、床からの高さは85cmで、マイクは90cm。少しだけ上の方から狙ってます。

■マイク・プリはFocusrite Twin Trak。設定は

AIRIMPEDANCEHIGH GAIN 
OFF3時OFF 
LEVELHPF MID SCOOPFREQ. 
4時半(ほぼフル)OFF OFF/ 
COMP.RELEASEGAINSLOW ATTK.HARD RATIOHARD KNEE
センター011時OFFONOFF


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2011年12月20日

長唄カラオケ唄っテストその3/菖蒲浴衣(兼るマイクテスト)

 長唄のカラオケで唄ってみるテストの第三弾は菖蒲浴衣。これも前回のと同様、文章の出来上がりがいつになるか不明なので、音の方だけ先にUPいたします。前二作に対して目新しい点は、唄を一部ダブル・トラックにして連吟風にしたところ。

 複数名でユニゾン・ラインを唄う事で、唄い手の個性が消える。それが連吟効果。

 演者の声から個性を消し、匿名的な声に作り替えるのは、江戸期三味線音楽に限らず、日本の芸能では常に重要な課題であり続けてるように思われます。要するに我々は、昔からロボ声が好きだって事ですね。昭和歌謡期のロボ声偉人は、露払いがザ・ピーナッツで真打ちは荒井由美。21世紀以降はデジタル音声処理技術が援用されるようになり、Perfume等のオートチューン・ケロやボーカロイドが人気。感情豊かに、歌い手の気持ちがたっぷり込められた歌なんて、我々は大嫌いなんですよ。

*)と、一概にそう言い切れない面はもちろんあって、まず匿名性を好むのが日本の特質かというと、例えば西洋式の発声法の、特に合唱での個々人性の抹消は、日本などよりよほど徹底して行われる。ボブ・ディランは作り声唱法で一世を風靡したし、ジョン・レノンはダブル・トラックを多用した。まあなんかいろいろですな。

 それで私のダブル・トラックなんですが、音程が悪すぎて()、ダブル・トラックとして扱える状態になってないっていう。だから2パートをLRに振って、ワキ役の方の音量を下げて、それでなんとか我慢できるかどうかという現状。しかしワキの音量は小さすぎたかも。だから今回のは音ファイルの方も、ミックスをやり直して再UPするかもです。

■追記■

 ワキ唄のミックスやり直し云々についてですが、結局これは、後日新たに録音し直しました。やはりミックスどーこーで救済できるレベルではない★だったら唄い直しちゃった方が早いかなと。
 音ファイルが曲頭の約2分間と、その後との二つありますけど、唄い直したのは後の方だけです。

 ついでに、三味線にだけ薄くリバーブを掛けてみました。それは二つのファイルの両方とも。ワキを左隅の方にPANしてたのは、センター近くに寄せてあります。


■2011年11月4日〜11月25日録音

五月雨や 傘に付けたる 小人形

晋子が吟も目の当たり
己が換名を市中の
四方の諸君へ売り広む
拙き業を身に重き

(中略)

■(ワキ唄の録り直し/2012年1月23日〜30日)

飾り兜の面影写す
皐月の鏡 曇りなき
梛の双葉のゆかしさは
今日の晴着に風薫る
あやめ浴衣の白襲ね

おもては縹 紫に
裏紫の朱奪う
紅もまた重ぬるとかや

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それは端午の辻が花
五とこ紋の陰日向
暑さに作る雲の峰
散らして果ては筑波嶺の

(合方)

遠山夕暮繁り枝を
脱いで着替えの染浴衣
古代模様のよしながき
御所染 千弥 忍摺り
小太夫鹿子 友禅の
おぼろに船の

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青すだれ

河風肌に しみじみと
汗に濡れたる晴浴衣

鬢のほつれを簪の
届かぬ愚痴も好いた同士
命と腕に堀切の
水に色ある花あやめ

弾く三味線の糸柳

(以下略)

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2011年12月16日

長唄カラオケ唄っテストその2/越後獅子(兼るマイクテスト)

*)音ファイルに長駄文を添えてUPするのが当ブログのスタイル。

 と、べつにそう決めてるわけではないのですけど、全体的に、文章長めの記事が多い傾向はありますわね。私としては長文なんか書きたくはないのだけど、思った事、感じた事を、その都度書き留めておくのも大事なので、書くべき事は書き残す、という事を心掛けていると、毎回それなりの文字数を要する次第。とはいえ、できるだけ短文で済ませるように、また、音ファイルの内容と関係が薄い事は、なるたけ書かないように、普段はそう努めているのです。

 しかしそれはそれで、書き残した事が溜まっていくという点にストレスを感じたりもするわけで、だから今回は試みに、思い付いた事は全て書き記すという方針で作文しております。そうしたら当然案の定、話しの枝葉がとめどもなく伸び続け、繁るに任せたジャングル状態となり、筆者自身がその中で迷子になりつつある現状です。去年の11月に書き始め、現在まで約3ヶ月経過。しかしまだ、いつになったら書き終えられるかの見通しが立ちません。ですので取りあえず、今日のところまで書き上がった分を一旦UPする事にしました。続きは後日に。

-----------(ここから本文)

 長唄のカラオケで唄ってみるテストの第二弾です。「羽根の禿」は二上り以下がテンポ速すぎだった。そこで今回は「浜唄」を遅めにしてみた。たっぷり唄い込む方の浜唄にしたかった。しかしこれ、いくらなんでもちょっと遅すぎましたな★
 それでも鍛錬と思えばこれもありか。なんにせよ自分で蒔いた種である。だから一応吹き込んでみたんですけど、非常に非常に苦しめられました。実際のところ速すぎても遅すぎても、テンポが度外れなのは練習用にもなりゃしない。やってる事アホですわ。


■2011年9月22日〜11月3日録音

打つや太鼓の 音も澄み渡り
角兵衛かくべと 招かれて
居ながら見する 石橋の

浮世を渡る 風雅者
唄うも舞うも 囃すのも
一人旅寝の 草枕

おらが女房を 誉めるじゃないが
飯も炊いたり 水仕事
朝夜たびの 楽しみを
一人笑みして 来たりける

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越路がた
お国名物は 様々あれど
田舎訛りの 片言まじり
しらうさになる 言の葉を

(合方)

雁の便りに届けてほしや
小千谷縮のどこやらが
見え透く国の 慣いにや

(合方)

縁を結べば 兄やさん
兄じゃないもの 夫じゃもの

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来るか来るかと 浜に出て見ればの
ほいの
浜の松風 音やまさるさ
やっとかけの ほいまっかとな

好いた水仙 好かれた柳の
ほいの
心石竹 気はや紅葉さ
やっとかけの ほいまっかとな

しんく甚句も おけさ節

(以下略)


 今回の録音期間は9/22〜11/3。なんか、じっくり腰を落ち着けて取り組むペースになってきていて、これはちょっとヤバいというか、当初の意図と違う方向に進みつつあります。たかが「唄ってみるテスト」に、こんなに時間掛けてどーするよ。

 もっとも、そうなってしまう根本には私の唄が不味すぎという問題がある。

 などとは言わずもがなだが、デジタル録音の最大の利点は「何度でもやり直せる」という点にあって、自分が納得出来るところまで作り上げる事は(原理的には)可能なのであるから、実際問題として「納得するところ」までは(歌唱力等の上限があって)無理だとしても、自分が「こうあるべき」と考える最低ラインだけは示す、せめてその程度のところまでは作り上げるべきなのである。でないと、こういう事をやってる意味もない。したがって、その「最低ライン」に辿り着くまでに相当の時間量を要したとしても、結果として成すべき事を成し得たのであれば、それはそれで良しとせざるを得ないというか、しょうがないなと納得するしかないでありましょう。

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 いわゆる伝統邦楽等のお稽古事は、いつも有り物のなぞり書きばかりで仕上がりはイマイチ。それでもまあいいやで番数だけを積み重ねるというパターンに陥り易いのであるが、それでは音楽としての経験は、何ひとつ積み重ねられていかないのである。そういう稽古の質は、テレビでも見ながら時間潰しをしてるのと同等である。「趣味なんだからイマイチ程度でかまわない」などと考えるのは、趣味というものに対する冒涜である。「趣味などなくても生きていける」という御仁も、中にはおられるであろうが、大抵の人は趣味の一つでもなければ、人としてやってられません。人生の意義は仕事よりも、むしろ趣味の方にあるのである(仕事や子育て等々の領域に趣味性を持ち込まれるのは、迷惑千万)。趣味を軽んじるのは人生そのものを軽んじるに等しい。趣味とは他人から強制されてする事でなく、〆切日を決めてする事でもない。趣味だからこそ、なあなあで済ます癖が付くのはマズいのであります。

 たしかに、ラジオやテレビの無かった時代の音曲の稽古とは、現在のテレビとほぼ同等の娯楽であった、という時代は長かった。更に言うと、現在の長唄界の長老/大先生格に当たる世代の人にとって、テレビの普及し始めたのは彼らの青少年期以降であった、という点からしても、音曲の稽古がテレビと同等の娯楽であったという時代は、そう遠い昔の話しでもないのである。
 とはいえ、物ごころ付いた時点で既にテレビは物珍しいものではなくなっていた世代、つまり現在の日本人の大多数にとっては、テレビはテレビ、三味線は三味線。全く別種のものである。わざわざ時間とお金と労力を費やして三味線を習いに出かけるのは、テレビ以上を求めているからなのである。

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 近頃、21世紀以降のメディアのあり方を論じる際に、インターネット Vs 旧来のマス・メディアという図式を立て、その情報の渡し方/渡され方をPULL型とPUSH型に大別してみる考え方というものがあります。

・自分から能動的に、情報を引っ張り出す必要がある=PULL型=インターネット
・送り手側が予め選別した情報を、量的・手法的優位を以て、ときには強制的に押し付ける=PUSH型=マス・メディア

という二分法。これは、PUSHメディア=洗脳機械であるからテレビは悪である、と説く際の根拠として利用されたりもしますけど、しかしPUSHメディアそれ自体は善でも悪でもなく、またネットがあればPUSH型は不要、という事でもない。ともかくここでは、PULL/PUSHの二分法を音曲の稽古に当てはめたらどうなるかというのを、ちょっと考えてみたいと思います。

 まず、江戸時代の稽古のあり方はどうだったかというと、当時の町人階級が手遊びにやる音曲としては三味線と、あとはお琴(かなり高級)と明清楽(中国の音楽)くらいしかなかった。趣味とは自分の好き勝手で始める事、つまり基本的にはPULL型の行動であるには違いないのだけど、他に選択肢がないという状況で選ばれる趣味の場合は、その選択に至までの経緯・条件に環境による強制が含まれる故、それはPUSH型の性格を多少なりとも含み持つのである。

 世間で何々が流行ってるから自分もやらなきゃいけない、ような気になって始める趣味は、PUSH型の度合いがかなり高い。現在の小学生が
「クラスのみんなはサッカーだから。というか学校に野球部がないから」
という理由でサッカーを始めたりするのも、PUSH型的である。ですから、手頃な楽器といえば三味線くらいしかなかった時代に三味線の稽古を始める、その動機と選択に至る経緯は多かれ少なかれ、PUSH型的であったと見なすべきであろう。かつての三味線の稽古とはテレビ的な娯楽であった、というのは、そういう点からもそう言える事なのである。

 その後、明治維新があり様々の紆余曲折がありの約150年間分の説明はすっ飛ばし、21世紀現在の状況についていうと、昨今の日本でわざわざ三味線なんぞを習ってみようと思う人の内、
 ・家業がそれ関係というわけでもなく、
 ・何らかの理由で人から強制されたわけでもなく、
 ・子供の頃に踊りをやってた、とかでもなく、
 ・現在の日本でなら、洋楽器を習う方が全然お手軽であるにもかかわらず、
それでもあえて、三味線を習ってみようと思う人の行動動機は、間違いなくPULL型である。かなり純然たるPULL型である。

 ですから、習う側にとっての三味線の稽古とは、この150年間で、ややPUSH型なものから → 完全なPULL型へと、変化してるわけですね。

 では、教える側にとっての三味線の稽古はどうであろうか?江戸期中については、習う側と事情は同じである。では現在は?もしも現在現役の三味線の先生の中で、
 ・親兄弟の家業が三味線でなく、
 ・その他、踊り等とも無縁な人で、
 ・何らかの事情で他人から強制されたわけでもなく、
 ・自らの意志で三味線を選択し、
 ・その演奏と教授を職業とするに至った。
という人がいたら、その先生はPULL型師匠であると申せましょう。逆に、
 ・生まれ落ちた先の家業が三味線であり、
 ・生まれた時から三味線弾きになると決められており、
 ・己の意志や適性などとは無関係に三味線弾きになった。
という人は、PUSH型である。
 では、現在のいわゆる伝統邦楽の世界に、PULL型の師匠はどの位いるであろうか?私個人の印象からすると、非常に少ない。もしかすると皆無である。よしんば少数ながらいたとしても、ムラ社会の掟に従い生きる彼らが多数派に抗して、PULL型としての独自性を保ち続けられるはずもなく、早晩PUSH型の価値観に染め上がってしまうのは必定である。

 ですから、教える側にとっての三味線の稽古は、昔も今もPUSH型で一貫してるわけです。一応、以上の事を表にまとめると、

 教える側  PUSH PUSH
 教わる側  PUSH PULL

となり、昔と今とでは教える/教わるという関係でのPULL/PUSHの組合せが、食い違ってしまってます。ここで問題なのは、行動動機としてのPULL/PUSHが異なる者同士では、相互理解が不可能だという事。

PUSH型の師匠から見たPULL型の生徒とは、無駄に熱心すぎな、空回りする風車。アタマのあったかいハシャギ屋さんである。
PULL型の生徒から見たPUSH型師匠とは、無能な奴隷的人種である。

この状況はヘタをすると、
出会ってはいけない二人が出会ってしまった悲劇、あるいは喜劇
へと発展しかねない。

NK101.jpg
*)参考画像;久米田康治著・講談社刊『さよなら絶望先生・第一集』より

 といっても現実の稽古場で、こういった内実があからさまになる事はなく、思った事をストレートに口には出さない大人しい日本人同士として、稽古の日々の表面上は平和に過ぎゆくわけですけれど、現在の三味線学習の現場にはPULL/PUSHの食い違いという、もはや修復しがたい亀裂が存してるわけです。

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 私は、日本人として音楽を行うものは、必ず一度、江戸期三味線音楽を学習しておくべきだと思っております。日本人が洋楽を行うのは、異文化との闘いなのである。明治維新後150年を経た現在でも、それはそうなのである。己を知らずに敵と戦うのは危険である。洋楽は「敵」じゃないですけどね。芸事の敵とは、根拠なき自賛、慢心、外部性の喪失、連続性の喪失などなどであろうけど、それらは全て「己に対する無知、あるいは劣等感」という共通の原因から生じるものである。

結局のところ、
日本人として三味線音楽を理解できない者は、
日本人として洋楽を理解する事もできないんだよ。

 私は、現在現役の三味線演奏家に対しては悪口ばかりを書いてますけど、三味線音楽そのものに対する考えは、以上の通りです。いやほんと、みんな三味線やっといた方が良いよ!
 わざわざ習いに行かず独学で済ませてもかまわないんだけど、日本と西洋の音楽を比べると、洋楽の方が優れてる点が多々あり、最初にその優れた洋楽の方に馴染んでしまった耳で古臭い邦楽に取り組むのは、非常な困難を伴う。時としてそれは、苦行でさえある。だから「いろはのい」だけでもいいから、最初は人から習って筋道を立ててもらった方が良いと思う。
 現在現役の先生は、音楽家としてはからっぽうな人達ばかりですけど、初心者相手の稽古なら、逆に良い(ともいえる)。カルチャーセンター的な稽古場なら、会計も明朗です。着物を着る必要もない。どうぞお気軽に☆ただし、先生の中身はPUSH型だからあまり多くは期待しないでね、って事ですね。

 また、こういういわゆる伝統芸能の稽古は、一旦入門したら簡単に止めさせてもらえないんじゃないかと心配する向きもあるかと思います。実際、
「伝統芸能は一生涯を掛け、芸の深みと神髄を極めるもの」
といった紋切り型を口にする師匠はいるんだけど、そういうのは全てコケオドシですから、真に受ける必要はない。現代日本人の基本的な素養の一つとして三味線音楽を身に付けたい、という立場の者であるなら、早々に習うべき事を習い終え、とっとと止めたらよろしい。
 というよりむしろ、学習とは本来、段階ごとの折り目をきっちり立て、最終的には「卒業」していくべき ものであるのに、PUSH型人間には自己学習能力がない故、教える側に立っても、その過程にケジメを付ける事が出来ないのである。

 とはいえ、三味線は習いに行った方が良い。私の言う「現在の三味線弾きは無能者ばかり」というのも、本当にそうかどうかを実地で確認していただきたい。実は案外、それほど悪くはないじゃないかと感じられるかも知れませんですしね☆  

*)ちなみに「日本人として三味線音楽が理解できなければ洋楽も理解できない」という件について、では逆に、三味線をやれば洋楽が分かるのかというと、そういう事はとくにありません。古くは寺内タケシ氏、近年でならネオアコ(死語)っぽい和洋合奏の類を参照して頂ければ、それは自ずと明らかであるかと。
 三味線をやっても洋楽が理解できるようなる保障はないけど、「洋楽とは理解しがたいものである」という事は理解できるようになる(かも知れない)。わかったような気になってる曖昧さの幅が切り詰められる、とでも言いますか。日本で音楽を行うという事は、輸入文化に対する圧倒的劣勢の中で、音楽をするという事である。現状、我々を支配しているのは、我々にとって理解しがたきもの、なのである。

 ついでに書き加えるなら、日本人として洋楽を理解できないのが、何か非常にマズい事なのかというと、別段そんな事はないとも言えるのであって、擬似洋楽風日本型音楽の歴史も現在までに100年以上を重ね、わかったような気になってる者同士の猿まね芸を披瀝し合う場として、日本の音楽市場は世界第二位の規模にまで成長した。日本人同士でやり取りをしてるだけなら洋楽理解の可不可など、問題にはならないのである。そして仮に、将来のある時点で擬似洋楽風日本音楽の生産が低調となり、やがて全停止したとしても、音楽の世界全体にとっては何の損失もない。日本の音楽など、べつになくてもいいものなのである。従って、日本の外側から日本人に対して、洋楽を理解せよと要求する者はいない。だから日本人にとっての洋楽理解の問題は、日本人自身の問題意識の有無により、それが問題ともなれば無問題ともなる案件である。

*)三味線を学んでも洋楽理解の助けにはならないけど、日本人本来のグルーヴを取り戻す事は出来る、かも知れないです。およそ1935年以降に生まれた日本人のグルーヴは、それ以前の日本人のグルーヴとは異なってる。民族改造されてしまってるんですよ。当然、現在現役の長唄演奏家はほぼ全員、ノリがおかしい。だからこの件に関しても現在の三味線の先生は、先生の役割を果たせないんだけど、1935年より以前に生まれた演奏家の録音は、けっこうまとまった量が残されていて、三味線をやればその、古い時代の日本人のグルーヴに触れる事が出来るようになる。現役演奏家との比較も出来る。
 20世紀の半ば頃を境に日本人のグルーヴは変質したのですけど、洋風になったのではありません。兵隊風になったのです。大日本帝国陸海軍の教練は西洋に倣ったもので、その軍事教練を全国民に遍く適用する事で実現された民族改造、その現れとしての兵隊風グルーヴ、なのであるから、そこには洋風な一面もあるには違いないけど、それはあくまでも一面にすぎない。いわゆる演歌は、日本古来の音楽ではないし、もちろん洋楽でもない。それと同じく、現代の日本人のグルーヴは日本古来のものでもないし洋風でもない。それを、20世紀型・新日本人のグルーヴであると見なしても良いんだけど、それが兵隊風であるのはいかがなものか?
 兵隊式が好きだという人も多かろうけれど、そこから逃れたいと思ってる人には、ぜひとも民族改造される以前のグルーヴを知っておいて頂きたい。兵隊式から脱しようとして西洋式や黒人式のグルーヴの模倣を試みる人も多いのだけど、兵隊式という土台の上に別のものを接ぎ木しても、ますます珍味が増すばかりである。クサい臭いは元から絶たなきゃダメなわけです。クサさ自体は、べつに否定しなくてもかまわないけれど、己に対する無知は、克服されるべき課題であるに違いない。

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それはそれとして

今回の録音の話し。

 私の唄の、今回の出来もずいぶんなものではありましたとさ。B4/C#5という音高の扱いに手こずったのは当然として、やはり浜唄の遅すぎたのには往生した。それと、どういうわけか、
 ♪おらが女房〜
 ♪越路がた
の2カ所がとても唄い辛く、これにも大いに悩まされた。そういう難所は当然、何度も何度も唄い直すわけですけど不味い事に、回数を重ねる程に「珍味」が増すという状態に至った。つまりイジクリまわし過ぎて軽く煮詰まってきたのでありますね。そうなってしまうともう、一旦冷まさない事には良い目は出ないから、口惜しいけど今回は現状で〆。


 節の形は東音会の先生に習ったものが元になってますが、小三郎・伊十郎両師のCDを参照して私が作り直した部分も多い、というようなものです。節の形は概ね東音会式でも、私が唄うとずいぶん下卑たものになり、結果としては東音会の長唄とは全くの別物になります、という事も一応書き添えておかないと、東音会に対して失礼だよねこりゃ。

 それと、研精会〜東音会の節は良く練り上げられていて、素唄の演奏会で聴くには優れたものであるけれど、節の個々について検討してみると、何故ここでハネ上げるのか?何故ここでユラすのか?それが意味不明というような、出所由来の少々怪しげな個所が多くあるように感じられます。どうもこれ、あれやこれやの美味しいとこ取りを長年積み重ねていくうちに、種々雑多な長唄様式の混合物/堆積物と化してしまってるのではなかろうか?それにどのみち、踊りから離れた「演奏会長唄」は音楽のあり方としては些か奇形的な性格のものですから、私的には、東音会のお手本通りに唄うのは止したが良いと思ってます。

 踊りのための音楽は、踊りと合わさって完全体となる。ですから音楽それ自体は薄味で、場合によってはわざと不完全無内容なものとして作られてさえいるものです。古今東西を問わず、踊り地とか、舞踊曲とかダンス・ミュージックとかと呼ばれる音楽は、いわば踊りを入れるための器(うつわ)として作られ演奏されるものである。
 しかしその踊り地と舞踊とを切り離し、音楽だけを単体で聴かせるのが素唄とか演奏会長唄とかと呼ばれる上演形式である。けれど、もともと音楽としては薄味に作ってある踊り地を、じっと座って耳をそば立ててるだけの聴衆相手に演じるのはチト辛い。そのため唄の節や三味線のタマ等にあれこれ細工を施すのであるが、そのような工夫は、例えていうなら空き缶の表面を七宝や千代紙で飾り立てる趣味手芸に等しい。それが音楽的な愚行でしかないとは、必ずしもそう言い切れない面もあろうけど、ともかく東音会の節をそっくりなぞるのは危険だと思う。というかそもそも、私の歌唱力では東音会式の入り組んだ節の全てを、お手本通りに唄うのは無理★なのでもあります。幸か不幸か私は、唄の技術というものを持っておりませんですので。

唄だけでなく楽器の方の技術も、なんかあんまりあるような気がしないんだけどまあそれはおいといて、

 ここで「幸か不幸か」と言うのは言葉のアヤではなく、負け惜しみでもなく、むしろ唄の技術なんか持ってなくて幸いだったと思ってます。なぜなら、唄が上手な人は、どんな節でも上手に唄ってしまえる。自分の体に合う合わないというような問題に煩わされる事なく、あるいは障害があっても技術で乗り越えてしまう。しかしそれは、危険な事だと思うのですね。何故かというに;

反省無き技術偏重・技術依存は盲目に等しい。

 技術なり努力なりによってどんな困難も克服する・なんでも出来るようになるという事を、例えば食事というものに当てはめてみると、それは、
「なんでも食べれる、どんなものでも食べれる」
という事になると、ここでは仮にそうだとしておいて、ところで人間の趣味嗜好の多彩さは驚くばかりであって、「なんでも食べれる」というテーマの拡がりついていうなら、その極北にはゲテモノ食いというカテゴリが存在する。貧困や飢餓、民俗的な必然性があって行われるゲテモノ食いではなく、面白半分の・興味本位のゲテモノ食いというものがある。

 酷いのになると、「生きたままのゴキブリを食べるコンテスト」というのさえあるんですよほんまに。

 然るに、そのゴキブリ食い大会の勝者は、ともかく「食べる事」に関しては人並み外れた能力の持ち主であるには違いない。普通の人なら拒絶するに決まってる対象を食そうとする勇気は超人的でさえある。しかしその勇気とは蛮勇である。彼は偉人かも知れないが、ずいぶん痛い偉人である。人並み外れていても、けして尊敬は得られず、むしろ嫌悪と軽蔑の対象となるばかりである。ありていに言ってしまえば彼は、要するに極度の味おんちでしかなのである。

 子供が大人になっていく過程では、苦いもの、酸っぱいもの、辛いもの等々の「嫌いなもの」を食べれるようにしておく必要がある。好き嫌いなく何でも食べれる事は健康の第一の条件であるし、また子供のうちに様々な味覚を経験する事で「へんなの」、つまり食物には適さない、けして口にしてはいけないものを、感覚的に選別する能力も養われる。
 だから、嫌いなものを食べれるようになる事は「努力によって克服されるべき課題」である。そして、人の一生の中には努力の必要な時期は必ずあり、身に付けなくてはいけないスキルも多々ある。どの程度に努力するか、またどれだけの能力を身に付けられるかは各個人の資質による多寡があるけれど、仮に、人並み外れた努力によって人並み外れた能力を身に付けられたからといって、それを全て人前に披露してみせる必要はないし、また「全てを披露してはいけない」という場合も、少なくはないのである。

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 でもまあ、食べ物は人類共通の関心事であるし、何よりも生命に直接関わりのある事だから、ゲテモノ食い的な悪趣味・悪ノリが食文化の主流になる事は、ありませんですね。ゲテモノ食いほど極端ではないけれど、やはり奇形的食文化とでも呼ぶべき、
 ・早食いや大食い
 ・激辛などの極端な味付け
 ・超高級な食材を一流シェフが調理してみせるスペック至上主義的料理ショー
等々、こういった諸々は一時的に流行したり、節気催事の余興としてなら行われても、けして食文化の主たる要素として定着する事はない。なんといっても食事は、極めて実際的な課題、生命の実践の第一の基礎であるから、実際性を損なう程の趣味性の肥大化、つまり趣味性の過剰へは陥らぬよう、そこには常に一定の制限が設けられている、はずである。

 より美味しいものや珍しいものを食べてみたいという趣味性は、実際性を飾る薄皮であって、しかしそれが全くない社会というのもありえず、とくに生産余力の高い状態を安定的に維持し得てる社会においては、美食趣味はむしろあって当然のものである。それは社会による自己表現なのであり、つまり成金趣味などと呼ばれる諸々にも、社会的機能はあるのである。それは往々にして醜悪な余剰物に過ぎず、平俗な実際性を飾る薄皮に過ぎないかも知れないが、社会全体とは案外、そんな薄皮一枚で支えられていたりもするのである。

 別の観点から趣味性の過剰というものを、それは規範からの逸脱である、と言い換えてみると;
規範は、むしろそこから逸脱する要素が若干ある事で、かえってその存在は意識され、その権威は強化される。
規範に与えられる疑念、攻撃、動揺は、かえってこれを強化延命させる。規範にはそういう性質がある。
だから、生産余力の高い社会であるならむしろ、規範からの逸脱を泳ぎ遊ばせておくための小さなセクタを、自己の内部に常に確保してるくらいで丁度良いのである。

 古代ローマの支配者層は帝国の絶頂期に過度の美食を貪り、そしてやがて帝国は滅亡するが、それでローマ人が全員いなくなってしまったとか、そういう事は全然ないのであって、支配者層という社会の薄皮があんまり古くなりすぎたから新しいのと取り替えられた、というだけの事である。
 社会制度とは、消耗品である。人類存続の基盤である「食」は、それより遙かに強固なものである。
 だから食文化は時々へんな方向に脱線しても自律的に軌道修正し、修正に失敗したセクタは滅亡し、人類全体としては概ね常に、充分健全な状態を保ち続けるのである。  

しかし音楽は、

音楽の世界での趣味性の過剰は、どちらかというと奨励される傾向がある。

むしろ音楽の世界は、ゲテモノ食いのパラダイスである。

「そうは思わない」という人は、つまりゲテモノをゲテモノとも思わず日々食してる(聴いている)可能性があるから、一度自分の耳をチェックなさるべきかと思う。

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 とは言うものの、音楽(に限らず芸能一般)では、何を以てゲテモノと見なすか?その基準は、常に定め難いのではある。そこで、ゲテモノ如何という問いを「規範」に対する則反への問いに置き換えてみると、ここに、芸能における規範の特殊性という問題のある事が分かる。即ち、芸能の本性、その存在意義は、煎じ詰めていえば
 常に新しいものとしてある事
であって、それは食文化や道徳といったものに求められる性質とは、大きく異なる。

 食事や道徳の規範は、生産技術や社会構造が変化した場合、それに対応すべく、その変化の後を追って、いわばしかたなしに変化する。それは出来れば、変化しない方が望ましいものである。つまり食事や道徳の規範は、保守的なものである。
 それに対して芸能とは、常に新しいものとしてあるべき本性に従い、その新しさを規範として社会に提示する事で、自らの存在意義を主張する。つまり芸能の規範は、常に変化すべきものである。

 しかしその一方で、人間の、芸能の変化に対する理解力・追随性は意外なほどに乏しい、という事情があるため、実際には芸能の規範も、なかなかに更新され難い。そのため結果的には芸能の規範も、食事や道徳の規範と同じく「見かけ上の」保守性を持つ事になる。
 つまり一般常識的になんとなくそう思われてる通り、人類文化のどの領域においても、規範とは保守的なのである。しかしその内実は、

A;保守的である事が望ましく、また実際に保守的である規範
B;常に変化するべきであるのに、それが不可能なため、(見かけ上)保守的となってしまう規範

の2種に大別される。そして芸能の規範はタイプ:Bであり、その点が食や道徳の規範とは異なる、芸能の規範の特殊性である。

*)ここでは芸能の存在意義を「常に新しいものとしてある事」と、何の論証も補足説明も加えないままそう言い切ってしまってますけど、ちゃんと書こうとするとこの件だけで一大長文になってしまう故、私感的一行表示に留めておきます。そもそも当ブログの記事は全て、言葉の定義や論証を厳密には行わない通俗文(しかも筆者本人以外の読者に対しての分かりやすさは一切考慮してない)という体裁の、書く事で自分の考えを整理する目的が第一優先の雑文ですから、言葉足らずな点が多々あるのはご容赦いただきたい。

と断っておいて、あえて芸能の存在意義なる問題について一言を付け加えるなら;

 ここで「新しいもの〜新しさ」という語を用いるのは、芸能の本質を言い表すための語彙群の中から、現在の日本のような、流行文化ありきな社会に対してよく当てはまるものを一つ選ぶと、それは「新しさ」であろうという事です。芸能の本質は全ての人類に共通のものであるけれど、国や時代が異なれば、それを言い表す言葉も変化する。都市文化が成立するより以前の芸能、例えば、毎年の正月ごとに村々を訪れ回っていた万歳。彼らによって執り行われた寿(ことほぎ)について言うなら;
 村落共同体=小社会集団は、節気の変わり目に際し外部者を招き入れる事で、自己の存在意義を再定義し更新する。万歳には、それを実現させる機能があった。それ故に、この芸能が存在したのである。この場合の、芸能の存在意義を言い表すに相応しい言葉は、例えば
「外部性」
であろう。そんな時代から千年ほども隔たった我々の時代の芸能に相応しい言葉は「新しさ」である。中身はたいして変わってないのであるが、言い表すのに適した言葉は異なるのである。

 見方を変えると、かつての芸能は、土地に縛られた者と流浪する者との対照によって成り立つものであり、規範に対しては共時的に働きかけるものであった。都市文化成立以後になるとそれが、都市の中心に存する者と周縁(河原)に存する者との対照になり、規範に対しては通時的に働きかけるものとなった。いわば文化の、時空の軸が転換したのであると云々

 「新しさを規範として社会に提示する事」の最も具体的な実現は、ファッション業界におけるコレクションであると云々

 さて、文化の規範にはA;保守的であるべくして保守的なるものと、B;見かけ上が保守的なだけのもの、その2種類がある、という事であった。では、この2種の規範のそれぞれが、規範を脅かす存在、規範を壊そうとするもの、ここでの話しに即していうなら趣味の過剰、ゲテモノ嗜好といったものに対面した時、どう振る舞うかを想定してみると、

A;真の保守的であるなら、それらを排除するべく努めるであろう。
B;真ならぬ保守は、趣味の過剰に対して寛容である。

そういう違いが生じると考えられる。
 芸能の規範は日々新たに作り替えられるべきものであるから、それを促進する存在、固定化され保守化されがちな規範を脅かす存在は、B型の、真ならぬ保守である芸能の規範にとっては、むしろ歓迎である。芸能の存在意義を維持するためには、規範外からの作用が必要なのである。
 そう考えていくと、芸を芸たらしむ、芸の生命力の源泉とは、規範外の存在、「つまりゲテモノなんですね」という事になってしまいそうであるが、それは一面、まことにその通りなのである。
 テクノロジーや社会構造が大きく変動する時は、芸能もそれに対応すべく変化する。それは食や道徳と同様である。

・ヨーロッパ市民革命によって公権力への隷属・寄生を解かれた音楽家達は、以後「大衆」と向き合うようになり、それによって音楽は大きく変化した。
・電気覚醒技術の出現する前後では、音楽のスタイルは全く異なる。等々

 しかしそのような大変動期ではなく、平時においては、食や道徳の規範はことさらな変化を求めないし、変化すべきでもない。だが芸能の規範は、むしろ平時にこそ変化する事が求められる(というような側面もある)。

 とはいえ、規範外の存在、即ちゲテモノ的なものさえあれば芸の規範は更新されるのではない。ゲテモノなるものの全てが、規範の更新に益するのでもない。しかし芸能の規範を更新する力は、社会全体の大変動期ならいざ知らず、平時にあっては実際のところ、ゲテモノの中にくらいしかないのである……というのもまた一面的な感慨であるけど、それがつまり先に述べた「芸の生命力の源泉はゲテモノというのは一面、まことにその通り」という事である。

 だから芸能はゲテモノを排除せず、それに対して寛容である。だから例えば、長唄東音会の唄の節は必要以上にクネクネしてる、つまりそれは趣味性の過剰なのだとしても、それを理由として東音会の節を否定するのは不当であるし、長唄なる規範の更新される機会の一つを失う事ともなる。

*)社会=環境の変動に対応して新たな存在形態が生じるという歴史理解は、進化論である。一方、平時における趣味性の過剰によって産み出される諸々は、単なる「個性」である。流行文化の枠内では、それらはしばしば「時代の徒花」などとも呼ばれる。時代の徒花を軽視・蔑視する人は多いのであるが、しかしそれは、進化論によって誘導された偏見である。
 芸能の規範(あるいは様式)とは、歴史的な積み重なり・連続性の結果としてあるもので、そこには進化と見なせなくもない相がある。一方、時代の徒花の類は歴史の形成に寄与しない。故に、正に徒花であるのだが、だからといってその徒花、つまり趣味性の過剰が産み出すもの、つまり時としてゲテモノ、そういったものが、芸能として価値が低い、という事にはならない。なぜなら、芸能が進化してるという前提、その歴史観が、疑わしいからである。  

 ついでに付け加えると、芸能において「個性」を過大評価(あるいは過小評価)するのは誤りである。個性とは、観念の次元では普遍たるべきを志向する芸能が、しかし現実態として在るためには、その拘束を受け容れなければならない必然(個別性)である。人が芸能に触れるためには、個性なるものを介するしかないのである。
(という個性理解、これはキリスト教三位一体説初期の素朴な形態(教父テルトゥリアヌス;160?-220?)、その類比ではなかろうかと云々)

*)芸能の規範も、見かけ上は保守的である。いわゆる伝統芸能なる観念は、この錯誤の上に成り立っているのである。実際のところ、それは単なるOld-Styleの、大昔の流行品であるにすぎないのだが、それを伝統と呼び換えて権威化したい立場の者もいて、そのような者にとって都合の良い「もっともらしさ」を与えてくれるのは、この芸能の規範の、見せかけの保守性なのである。それは、更新に要する能力と機会を失ったが故の、見せかけの保守性にすぎないのだが、「新しさ」というものを「新しいから」というだけの理由で否定したい者、新しさを受け入れる事に困難をおぼえる者、そういったタイプの人々にとって、偽りの保守性によって権威化された、いわゆる伝統芸能なるセクタは、格好の溜まり場である。

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 社会全体の大変動期にあっては、芸能の規範も「いやおうなしに」変化する。その点は、食や道徳の規範と同様である。一方、大きな変化のない時代にあっても、常に変化する事を求められる芸能は、その変化を産み出す要因、きっかけ。変化を完成させ、社会に対して「新しいもの」であると認知させるに要する力の源泉。そういったものを、どこから得たらよいのであろうか?変化無き、いわゆる平和な時代である以上、それを社会=環境の変化には求められない。では、芸能の内部、芸能それ自身の中に、芸能を作り替えていく要因を求める事は可能であろうか?趣味性の過剰に、そうした要因としての役割を期待してよいのであろか?

 しかし、趣味性の過剰とは、規範の保守性を脅かす存在、というに過ぎない。つまり、規範の更新を「促進」するのは趣味性の過剰である場合もあるが、規範の更新を「完成」させるには、趣味性の過剰とはまた別の要素が必要である。という私感的結論を、ここでは先に書いておきます。趣味性の過剰それ自体に、創造力はないのである。
 仮に、ある国ある時代の食文化において、ゲテモノ食いの大流行が起きたとしたら、その国の食文化の規範は毒され、破壊されるであろう。だから趣味性の過剰に、破壊力はありそうである。しかし創造性は?

 これは多分よく勘違いされる事だと思うのだけど、創造と破壊とは、それほど関係がない。趣味の過剰、社会変動、それらと並ぶ、創造を促すもう一つの要素は、外部性である。外部性(外部者)による客体化・批判によって、創造は促される。また、創造の行われた結果、過去のものとなった側の規範は、外部性による「相対化の痛み」を経験する。その痛みは、破壊によって生じる痛みと、痛みという点では同じである故、創造と破壊は混同されがちなのかも知れないが、実際は全く無関係なものである。

 破壊とはたいてい、同次元に存する者同士の、政治的闘争としてあるものである。その本質は、並列的個性複数によるイス取りゲームであって、創造とは無関係である。
 趣味性の過剰はたいてい、既存の規範の内部から生じるものである。即ち、既存の規範と同次元にあるものである。だからこそ趣味性の過剰は、規範に対する破壊力は持ちうるが、それを更新する力は持たない、のだとも考えられる。

 創造、規範の更新が行われた結果、過去のものとなった側の規範は、社会から排除されてしまうかというと、必ずしもそうではない。それは、その規範の更新が行われた芸能ジャンルに「過去の遺物」を抱え込んでおけるだけの、経済的等の余力があるか否かで決まる事である。
 例えば、日本国内に伝統芸なる観念が生じ、その存続を、国税を用いて支援するための制度が整備されていったのは、明治末〜昭和の半ば頃であるが、それは日本全体が経済成長を続け、人口も増加を続け、平均寿命もどんどん伸び続け、都市部への人口流入も増え続けていた、という時期であった。こういう条件があったからこそ、過去の遺物の存続が許されたのである。内容が優れているからとか、多くの人から愛され続けたから、生き残ってきたのではないのである。
 また、創造・規範の更新を成し得た者の側からすると、過去のものとなった規範のその後の行く末など、知った事ではない。創造は、同次元にある者同士の闘争や復讐行為ではないのである。だから、戦闘の終結を仕上げる掃討作戦や、水溜まりに落ちた犬に石を投げ打つ的行為を行う創造者は、いない。以上の事からも、創造と破壊とは無関係であると言えるのである。

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 ともかく、趣味性の過剰には創造性がないとなると、これを無批判に受け入れるのは考えものである。とくに、学習の過程にある者が、それを教材として受け入れてしまうのは危険である。例えば、18世紀後半のフランスにて家具職人として修行中の徒弟が、イスといえば猫足のものしか作った事がない、というまま修行を終えてしまったら、徒弟氏にとってそれは、色々な意味で不幸な事である。

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ロココの女王と称されるのはマリー・アントワネットであるが、ルイ16世はどちらかというと新古典主義志向。ロココのオピニオンリーダーはポンパドゥール夫人であった由(まめち

 「腕の立つ職人」という存在は、趣味性の過剰が瀰漫した(あるいは瀰漫しつつある)時代やセクタでなら、思う存分にその腕前を振るい、充実した生涯を送る事が出来るであろう。そのような状況では、
 ・規範からの逸脱が悪しきものと見なされず、
 ・技術それ自体の自律性が産み出す余剰品をも、評価の対象としてしまう。
つまり、趣味性の過剰の抑制に失敗したセクタでは、芸能に対する評価のあり方までもが、動揺し始めるのである。しかしそれは、芸能者にとっての不幸である。なんといっても音楽は、おんちな人同士で「ほめっこ」をしても虚しいのであるから、技術それ自体が産み出す余剰品までをも評価の対象としてしまうほどに規範が弛緩・弱体化してしまった時代に、スゴ腕演奏家として音楽界の頂点に立ったとしても、それはやはり虚しいのである。芸能の存在意義、その本質、即ち規範の更新に対して、寄与する点がないからである。

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 だから私は、唄が下手でよかったなっていう話しの進め方も、無理があるといえば無理があるんだけど;

 ともかく縁あって2〜3年、私は東音会の先生に唄を習ってました。もし私が唄が上手で、お手本通りをスラスラ唄えていたなら、先生からのおぼえも目出度く、自分でも得意になって東音会式の節を唄っていたと思う。しかしながら;
 反省無き技術偏重・技術依存は盲目に等しい。
という事ですね。趣味性の過剰によって産み出されたものを、迷わずパクパク口に放り込んでいたら、いずれはゲテモノ食いの名人となってしまうであろう。東音会の節はゲテモノではない、のだとしても、ものごとを無反省に受け入れてしまう、その鈍感さは、ゲテモノ名人となるための第一の条件である。そして、ゲテモノ名人となるための第二の条件は?それは、実際に何でも食べれる、優れた技術である。

 私の場合は、第一の条件はクリアしていたわけですよ。「マジメな生徒」だったって事ですね(先生がこちらをどう思っていたかは分かりませんけど)。お手本をかなり丁寧に採譜したりして、極力、そっくりに唄えるよう努めていた。しかしながら、芸能においては、マジメさとは愚かさである。

 それで、ゲテモノ名人となるための第二の条件は「優れた技術」、ですけどそれが私には無いっていう。マジメなうえに下手である。最悪である。しかしこの場合は、下手だという事が、趣味性の過剰という病に感染するのを防いでくれたのだ、というのもずいぶんな強弁ですけど、東音会の節には、趣味性の過剰の産品的な一面がある。それを唄いこなすには、それに見合った高い技術、喉笛の曲芸が必要である。しかし自分には曲芸が出来ない、という時点で既に、趣味性の過剰からは隔てられている。下手である事が、防波堤の役割を果たしてくれてる。これはむしろラッキー☆いやほんと唄が下手でよかったわ。

*)技術それ自体の自律性、とは何か?
 科学分野でのMADはかせみたいな存在を思い浮かべて頂ければ分かりやすいかも。古来、技術屋とは暴走しがちな者であって、それは芸能分野の技術屋も同じ、という事ですね。
 道具の操作手順、その順列組合せを変えてみたり、手順を細分化するだけで、道具の操作術というのは、そのバリエーションを増やせる。それが技術それ自体の自律性
 楽器という道具を操作する専門家は、常に操作術のバリエーションを増やそうと努めるが、その大部分はたいてい、音楽的には不要なものである。

4分音符を二つに割って8分音符のフレーズを作る。更にそれを二つに割って16分音符のフレーズを作る……
16分音符をスラスラ演奏できたら、音楽としてはもうそれで充分ですよ。しかし技術屋というのは、それを更に細分化したチョコマカ弾きをしたがるのである。楽器操作専門の技術屋とは、音楽よりも道具の操作術の方に関心を寄せる者供である。要するに耳が聞こえてないのである。

 あと、必要以上の正確さを求めるのも、技術屋にありがちな性癖だけど、それは技術の自律性というより「心理」の問題かもと云々

*)芸能において、マジメさとは愚かさ;
「なんかこれ、ちょっと変じゃないの?」というような疑問が頭をかすめても、いやいやありがたい先生のお手本なんだからガムバッテ飲み込まなきゃいけない、と思ってしまうマジメさ。自分の口には合わないと思っても、努力で克服しなければと思ってしまうマジメさは、芸事の妨げでしかない。芸事なんて手前の好き勝手でやる事なんだから、体に合わないのは止しにするか、自分に合うよう適当に作り直せばいいんですよ。

 しかし「愚かさ」それ自体は、良くも悪くもない、これは人間の個性の一つである。愚かさは恥じるべき事、であったとしても、そこから無理に逃れようとするべきではない。辛いですけど。愚昧に徹する事で開ける道もある(らしい)。しかし人というのはたいてい、何事に対しても「徹する」というのが出来ないのですな。

なお;
自分の体に合わないのは適当に作り直せばいい。しかし古典を学び、それに倣う事は重要である。この対立をどう調和させるべきかについては、当稿の後段にて検討する予定。

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 その、私の習ってた東音会の先生の稽古では、難しくて唄えない個所は取りあえずの省略形で済ますというやり方で、番数を重ねていきました。つまり出来ないなら出来ないでかまわないという扱いで、こちらとしても唄は本業ではなく、三味線の足しにでもなれば程度の心つもりで習ってるという気楽さがあって、その上で改めて、なんだって東音会の節はこんなにクネクネなのかという事を考えてみるわけです。「越後獅子」という曲に即していうなら、
 ♪越路がた〜
のクネクネは、この部分の元ネタである地歌の産み字の写しではなかろうか?であるならここは、略してはいけない。しかし他の部分は?

 東音会の稽古では吉住小十郎著・長唄新稽古本、通称研譜を用いるのですけど、この研譜というものには小三郎師個人の唄い方の癖、節回しの癖までをも忠実に採譜しようと努めたやにも思われる痕跡がある。しかるに唄の節の形とは、なんだかんだ言っても最終的には「唄い手個人の様式によって定まるもの」である、という観点からすると、研譜の採譜方針は、
 ・一面では大いに有意義であり、
 ・一面では「典型たりえてない」という不備がある。
ともかく、ある個人の唄い癖を別の個人がそっくり真似て、それを己の節に取り入れるのは、そういう事をしてるのだという意識を持って慎重に行わない限り、危険な行為である。時として外道である。

 であるから、まずは研譜と、それに基づいてる部分の多い東音会の節から、小三郎師個人の癖に属する要素を選り分けておく必要があるであろう。そのために何をしたらいいかというと、取りあえずは小三郎師の残した録音を聴くしかない。比較の対象として、松永和風師、伊十郎、五郎治といった人達の録音も、改めて聴き直す事になる。また、小三郎師が影響を受けたという常磐津林中を聴いてみたりもする。

NK103.jpg名人林中の録音はCD化もされてるんだけど(日本コロムビア/2006年)、これは日本で録音というものが行われ始めた最初期=明治30年代のSP盤なので、音質はよろしくない(林中の没年は明治39)。ノリと運びは分かるけど、歌の節の細かいところは、正直言うとあんまりよく分からないっす★

 それで、小三郎師の録音を聴いて明らかとなるのは何かというと、研譜に書き記された節の形の内、小三郎師の個性に属する部分は蛇足だとい事。小三郎師の個性は、実際に鳴り響く音として聴く事が出来る、という現状を踏まえて、稽古本としての研譜の意義を改めて問うなら、
「その節の表記は煩瑣なだけで、長唄としての典型たりえてない」
という不備・不満が残るばかりである。
 研譜が作られ始めたのは明治末だったか大正期だったかで、その頃すでに録音術は存していたけれど、初期のSP盤は音質が悪く、実用性は低かった。だからその時期になら、研譜の採譜方針は充分に有意義なものであったろう。また、唄ではなく三味線用の稽古本としてなら、今でも充分有意義である(西洋式五線譜と比べ、とくに優れてるわけではないが)。そもそも研譜は三味線が主で、唄は附けたり扱いに近いので、だからこれの唄の表記に対し文句を言うのもお門違いなのだけど、ともかく研譜には、これを唄の稽古本として用いるに際しては、ちょっと面倒な側面があるという事ですね。  

 洋楽の経験がある人にはお馴染みの事であるが、そっち方面の譜面とは基本、のっぺらぼうなもので、演奏者各自が、音量の大小とかテンポの伸び縮みとか装飾音の付加とかいったアヤを、必要に応じて書き込んでいく。ぜんぜん書き込みをしない人もいるけど、几帳面な人の譜面は書き込みだらけでゴチャゴチャになっている。しかるに研譜は最初からアヤ沢山で混み合ってるから、まずはそのアヤを洗い落とす必要があって、その一手間多いのが些か面倒である。このアヤの洗い落としをせず、アヤとしてではなくとして扱ってしまうと趣味性の過剰へと陥る危険性があるから、この作業は必須である。
 尤もこの、アヤの洗い落としが必要なのは研譜に限った事ではなく、和風にしても伊十郎にしても、それを「お手本」として扱う際には常に必要である。アヤを取り除かず、唄い癖までをも全て真似る完全コピー、写しというのは、学習者には必須の課程であるし、そもそも唄が好き、音楽が好きという人間なら誰でも、憧れの歌手なり奏者なりの完コピはしたいものなのだから、これは放っておいても勝手にやるのである。しかし、常に完コピばかりという稽古法もありえない。肝心なのは、長唄の節の「典型」をどこに求めるべきか、という問題である。  

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 それにしても芸能という領域にあっては、何がゲテモノで何がゲテモノでないのか?その境界を見定めるのは難しいのである。あるいは、真なるゲテモノ、純然たるゲテモノと、見せかけだけのゲテモノを見分けるのは難しい。ことに音楽というジャンルについて言うと;

 録音テクノロジーの出現により、音曲を音盤という商品として流通させる事が可能となった19世紀末以来、音楽は流行産業の主戦場となり、PUSH型メディアの主たるコンテンツとしても、また政治装置としても、ずいぶん利用されてきたものである。そういう経緯があるため、音楽におけるゲテモノ如何の問題は、扱いが面倒くさい。「音楽として」の云々以前に、音盤の個々についてまず、それを音楽として扱うべきや否やが悩ましい、という場合も多い。
 なぜというて、音盤を売るという産業は、このテクノロジーが登場して間もない内に巨大化し今日にまで至ったが、巨大化した産業体には、その巨体を支え続けようとする自律性があり(産業のMADはかせ化)、それに要する産品を、たいていは極めて大量に、日々市場に送り続ける。しかしその商品供給量が、音楽を求めてる者の人口規模に見合う需要よりも過大であるなら、やがては需要から外れた余剰分を、音楽を「求めていない」者にも買ってもらわねばならぬ、という事態に陥るであろう。
 しかし、音楽になんか興味ないという人にでも買ってもらわなければならない音盤とは、いかなるものであろうか?それは早晩、興味なくとも無理にでも買わせるという意図の元に企画設計されるようになるであろう。ここに、音楽の世界がゲテモノだらけになってしまう原因の一つがある、と言えなくもないのだが;

 音楽を求めてるわけではない者に対して売る音盤は、一応外観が音楽っぽい形をしていれば、中身が音楽である必要はない。中身がないという意味では、それはゲテモノというよりも代用食品、あるいは栄養価をほとんど持たぬダイエット食品みたいな音盤、と呼ぶべきかも知れない。たしかに、例えば商業施設で垂れ流しするためのBGMなら、ダイエット食品の如き、音楽としての中身を持たぬ「ただの音」の方が、都合が良さそうである。
 しかし、外形は音楽っぽいが中身は音楽ではない、というような音盤こそが、真に”反音楽的”なるものであり、それこそが正に音楽のゲテモノである、ともいえる、等々、こうなってくると何を以て音楽のゲテモノと見なすかは、論者によって銘々ご勝手次第となるわけで、だから音楽のゲテモノとは何かという問題は、面倒くさいのである。例えばこんなの;

NK104.jpgYngwie Malmsteen"FIRE & ICE"
(1992年)

 見た目は、いかにもなゲテモノであるし、胴回りの太さは反ダイエット的。そういう御仁ではあるのだが、音楽的に「中身がない」という点において、私感ではこういうのが最も典型的なダイエット食品型音盤であるように思われます。しかしロックの世界では、店内BGMよりかは、まだゲテモノの方が高く評価されそげな事情があり、だからMalmsteen氏自身も実は、自分の本質はダイエット食品型であるとの自覚はあって、せめて見た目だけでもゲテモノ風になるべくわざと、世界一ダサいコスチュームを着用する等のキャラ作りに努めてるのではなかろうか?

 若い頃にダイエット食品ばかりを食べていたら、中高年以降になって色々障害が生じます。インギー音盤も同じ。人間誰でも中高年以降は、運動能力も頭の回転も衰えるから、楽器は下手になっていく一方ですが、そうなった時に音楽的な仕込みがインギー類しかないとしたら、それは非常に辛い事ではなかろうか。このテの音盤は生涯にわたって楽しめるものではない、つまり「主食」の役割を果たしてくれない。そういう点で、ほんとこういうのは代用食品とかダイエット食品みたいな音盤だと思います。見た目に騙されたら負け。彼はけして、ゲテモノではないよ。

次の一例;

NK105.jpg高中正義 "虹伝説"
(1981年)

 筆者は井上陽水から音楽を聴き始めた者なので、スタジオ・ミュージシャンとしての高中氏の演奏も、けっこうな時間数を聴いてます。「帰れない二人」のソロは、今でもかなり好き。一方、ソロ・アーティストとしての高中氏の音盤に関しては、そんなものはただのお笑い草であると、にべもなく断じてしまう筆者である。しかし米国でもどこでも、スタジオ・ミュージシャンのソロ・アルバムって、たいていダサい。とくに70〜80年代の、いわゆるフュージョンのギタリストってなんかイモばっかしだから、その点、高中氏だけが特に劣ってるわけではないです。

 ヤマハのSGを使うようになって以降の高中氏は、ヤマハ製品の宣伝隊長を兼務してたような面がある(かも)。だからその時期の氏のアルバムは、SG販促用の商材、ギター売り場で流すためのBGMとして相応しいものではあるが、音楽として評価すべき点は、何もない。ギターに興味のない人をも釣り上げんがための撒き餌として、多少目先を変えてあるかなというくらいがせいぜい特徴的な、これも典型的な無内容ダイエット食品型音盤であると申せましょう。

 ところがこういった音盤を「音楽」だと思って聴いてる人も、少数ながらいるらしい。しかしこんなのを真正面から受け止めたら、耳が壊れまっせ。つまり、同じ音盤でも扱い方によって、聴く人の受け取り方によって、人畜無害なBGMともなれば、有害なゲテモノともなる。「何を以て音楽のゲテモノと見なすか」の判断が難しい、という事の中には、こういう問題も含まれてるわけです。

*)先に述べた、現在の日本人のグルーヴは兵隊風であるという件に絡めるなら;
このアルバムで聴かれるようなグルーヴの方が楽しい/こういうグルーヴでしかノレない。という人も、もうかなり多いのだとしたら、高中氏が人気あるのもなるほど納得であるけど、つまりこれは「聴けば聴くほど兵隊さん」となってしまう音盤であり、その点での毒性の高さを鑑みるなら、むしろはっきり「ゲテモノである」、否、「我々を毒するものである」と断ずるべきなのではある。ところが芸能にあっては必ずしも、毒=悪、ではない。あーメンドクサイ。

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 ともかく、音盤産業による「興味ない人にも無理にでも買わせる戦略」が成功し続けてる限り、我々の聴環境には、無理にでも買わせるために生産された音盤から発せられる音響が、常に一定の割合で響き続けるわけである。

NK106.jpgAKB48 "RIVER"
(2009年)

 AKBの楽曲にはとりあえず、あからさまにゲテモノと呼べるような要素はない。どちらかというと中庸的で、どちらかというと無性格。というよりこれは、ダンス・ミュージックが踊りを乗せるための下地として、わざと無内容に作られてる(場合もある)のと同じで、AKBの楽曲は、メンバーのキャラを立たせるための下地として、わざと無内容に作られてる、と理解するべきものであろう。

 しかしAKBのファンとして、「感情移入して」この曲を聴けば、すごく良い曲だと感じられるのかも知れない。だがそれは、AKBのファンではない者にとっては絶対に判断不可能なのである。つまり、これはAKBに限らずアイドルもの全般についていえる事であるが、ファンではない人間には音楽的な価値を判断できない、そういうタイプの音盤も存在するのである。アイドルものだけでなく、映画やTVドラマの主題歌、アニソン、キャラソンも、このタイプに含まれるから、音盤産業の産品全体に占める割合は、かなり高いのである。それらが全て、ファンでない者にとっては、その音楽的価値を判断する事が不可能なわけで、そういう点からしても、音楽というジャンルでのゲテモノ如何という問題は、扱いが難しいのである。

*)Yngwie Malmsteen氏の音盤は中身のないものであるが、ダンスやアイドルを乗せるための楽曲に中身がないのと同様、それは「楽器という道具を操る曲芸を乗せるための楽曲」であるのだとしたら、中身がないのも理の当然である。となると、アイドルのファンでない者がアイドルの音盤に口出しすべきでないのと同様、曲芸に興味のない者は、曲芸用音盤に口出しすべきではない、という事になる。

 しかしアイドル一般としてではなく、AKB48という個性に限って、そのアイドル・グループとしての、というより芸能界上のシステムとしての在り方、とでもいうような事と、音盤との関係についていうなら、これは、コンビニで菓子を売るという名目で玩具を売る式のビジネスが大当たりを取る、その同時代の現象。即ち、レコード屋で音盤を売るという名目で握手券を売る商売を行う点に大きな特徴があるのだけど、これは正に「無理にでも買わせる戦略」、しかもそれを実にあからさまに実行してみせてる点、これは楽曲の内容云々とは別のところで、つまりAKBのファンでない者であっても、AKBなる個性は音盤産業の産み出したゲテモノであるや否やを問う権利が(そして、問い質す義務も)存するのではなかろうか?しかしこの、音盤を、音楽に興味のない人にまで売りつける事で巨大化し、音楽が求められていないところにまで音盤を流通させる事でその巨体を支え続けてきた音盤産業、その手法、その実態の、あからさまなる自己表現に対しては、これを、
 ・次なる時代への幕開きを告げるラジカリズムであると評価するか、
 ・音盤ビジネスの手法が一つ増えたに過ぎないとするか、
 ・あるいは斜陽せる産業体の呈する、末期的症状と見るか、
等々、評価論考にあたっての切り口は様々あり、しかしそれらがゲテモノ如何、つまり趣味の過剰と関係があるかどうかは、もはやよく分からないのである。つまり、やはりAKBひとつとってみても、ゲテモノ如何という問題は面倒くさいのであった。上記のような件をいくら云々してみても、ゲテモノ如何に対する答は出てこないのである。結局これは、

芸能はゲテモノに対して寛容であり、それを排除しない

という前提を立てているから、ゲテモノ問題を一刀両断に切り捨ててしまうような単純化が、許されなくなっているのである。

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この事情を「規範からの逸脱」という問題の立て方から見てみると;
 芸能の規範は常に動揺するもの(すべきもの)である故、規範外のものに対しても、これを類型として抽象する事が出来ない。従って、規範外のもの=ゲテモノとは何かを論ずるにあたって、これを類型的全体像として扱う事あたわず、一つ一つの実例について、各論的に扱わざるを得ない。
 だから面倒なのだ、という事にもなるかな。

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2011年10月25日

長唄のカラオケで唄ってみるテスト/羽根の禿(兼ル、マイクテスト)

 今までに長唄の練習用カラオケを数曲UPいたしましたけど、実際のところこれ、ほんとにカラオケの用を足してくれるものなのか?それを検証するためのテスト録音を行ってみました。

 今さらかよ★って話しですけど。

 結果としては案の定というべきか、間が詰まりすぎで唄いにくい個所がいくつかあったので、それは修正して再UPしてあります(ただし修正といっても、新たに弾き直したのではなくDAW上でファイルを切り離して間合いを調節しただけのズサン作業)。

 練習用カラオケなんだから、全体にテンポは速め。というのは意図的にそうしてるのではあるのだけど、それにしたって「文がやりたや」以下は速すぎましたな。こんなんじゃまず踊れないし、唄うのでも、なんか早口言葉みたくなっちゃったよ。しかし今さらどうしようもない。作り直すのが面倒なのではなく、唄の出来も悪すぎますんで、この曲はいずれ全編を録り直します。今回は「兼ル、マイクテスト」という事もあるので、とりあえず現状のままうp★


■2011年8月12日〜9月21日録音

恋の種 蒔き初めしより 色と言う
言葉はいずれ この里に

(合方)

誠こもりし ひと廓
丸い世界や粋の世に
嘘とは野暮の誤りと
笑う禿のしおらしや

(合方)

禿かむろと沢山そうに
言うてくだんすな こちゃおいらんに
恋の諸分や手管の訳も
教えさんした筆の綾
よう知るとは思わんせ
おヽ恥ずかしや恥ずかし

しどけなり振り 可愛いらし


文がやりたや あの君さまへ
取りや違えて 余の人にやるな
花の彼の様の
さて花の彼の様の手に渡せ

朝のや 六つから六つから
上衣下衣ひっ重ね
禿は袖の振り始め
突く
突くつくには羽根を突く
ひいふうみいよう
五重に七重に琴は十三十四十五
手はまおく二十ひいふうみいよう

見よなら見よなら
松をかざして梅の折枝
それさこれさ
それ好いた三味の手

(合方)

梅はにおいよ桜は花よ
梅はにおいよ桜は花よ
何時も眺めは 富士の白雪

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2011年01月06日

長唄のカラオケ「羽根の禿」(調子=七本)

恋の種 蒔き初めしより 色と言う
言葉はいずれ この里に

(合方)


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2010年08月08日

長唄のカラオケ「藤娘」(調子=五本)

津の国の
浪花の春は夢なれや
早二十年の月花を
眺めし筆の色どりも
書き尽くされぬ数々に
山も錦の折りを得て
故郷へ飾る袖袂


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タグ:三味線 藤娘
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2010年07月09日

長唄のカラオケ「菖蒲浴衣」(調子=四本)

五月雨や 傘に付けたる 小人形
晋子が吟も目の当たり
己が換名を市中の
四方の諸君へ売り広む
拙き業を身に重き


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長唄のカラオケ「吉原雀」(調子=四本)

(前略)
養老四年の末の秋
宇佐八幡の託宣にて
諸国に始まる放生会


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長唄のカラオケ「越後獅子」(調子=五本)

打つや太鼓の 音も澄み渡り
角兵衛かくべと 招かれて
居ながら見する 石橋の

浮世を渡る 風雅者
唄うも舞うも 囃すのも

一人旅寝の 草枕
おらが女房を 誉めるじゃないが

飯も炊いたり 水仕事
朝夜たびの 楽しみを
一人笑みして 来たりける


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