2014年11月09日

YAMAHA LL-6J 2014年9月

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 私のYAMAHA LL-6Jには以前にも一時期コンパウンド弦を張ってた事があって(2012年10月の録音)、その後ブロンズ弦に戻し(同じく2012年10月の録音)、そして今回再びコンパウンド弦を張りました。今後はコンパウンド弦を張り続ける事になると思います。
 張り替えた直後に録った作例はこれ(2014年8月)ですが、ギター単体での音の参照用としては不適。その約1ヶ月後、音色も落ち着いてきた頃合いに3曲まとめて録音したのが今回の作例です。収音マイクの用い方も3通り、それぞれ違えてあります。

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■3曲ともリード/サイドの2パート。ギターは全てYAMAHA LL-6J

■サイド・ギターの収音方法は3曲とも同じ。
■使用したマイクはMXL R144(赤丸なし)とMXL 600の2本を併用。
■楽器からの距離はMXL R144が20〜30cm。MXL 600が120cm前後。両方とも楽器正面、サウンドホールを狙う。

■マイクプリはFocusrite Twin Trak。設定は;

・MXL R144

INPUTEQComp.
Imped.=620OFFComp=9時Slow Att=off
Gain=フルRelease=AutoHard Ratio=Off
LowCut=offMakeupGain=11時Hard Knee=Off

・コンプをOnにしたのは、マイクプリだけでは不足気味なゲインを増補するのが主目的で、コンプレッション自体は殆ど掛かってません。

・MXL 600

INPUTEQComp.
Imped.=センターOFFOFF
LowCut=On

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■1曲目のリード・ギターの収音マイクと設定等は、サイド・ギターと同じです。

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■2曲目のリード・ギターに用いたマイクはRCA BK-5BMXL R144(赤丸あり)。
■楽器からの距離はRCA BK-5Bが約20cm。MXL R144が約140cm。両方とも楽器正面、サウンドホールを狙う。

■マイクプリはFocusrite Twin Trak。設定は;

・RCA BK-5B

INPUTEQComp.
Imped.=11時OFFComp=11時Slow Att=off
Gain=フルRelease=AutoHard Ratio=Off
LowCut=offMakeupGain=12時Hard Knee=Off

・MXL R144

INPUTEQComp.
Imped.=センターOFFComp=3時Slow Att=off
Gain=フルRelease=AutoHard Ratio=Off
LowCut=offMakeupGain=4時Hard Knee=Off

・コンプOnの理由はサイドギターについてと同じ。

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■3曲目のリード・ギターに用いたマイクはOktava MK-319MXL 600
■MXL 600の立て方、マイクプリとその設定はサイドギターと同じ。

■Oktava MK-319の、楽器からの距離は約20cm。
■マイクプリはFocusrite Twin Trak。設定は;

INPUTEQComp.
Imped.=センターOFFOFF
LowCut=off

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■録音期間;
2014年9月14〜21日

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 今回の録音方法は、ギター1本に対してマイクを2本立てる方式です。1曲にギターは2台だからマイクは4本。それが3曲だから、全部で12本分。それら全てに対し、DAW上でEQしリバーブを足してます。3曲とも設定の基本方針は同じで、
・サイド・ギターのEQは100Hz周辺を狭めのQでカットし、それ以下の帯域もシェルビングでカット。
・リード・ギターへの設定も概ね同じで、カットする量はサイドよりは少ない。
・リバーブ・タイプは、リード/サイド共にRoom。
・リードの設定は、殆ど初期反射成分。サイドは、残響成分がやや多い。
という処理を施しました。いつも提示してるエフェクトソフトの設定画像等は、今回は略します。12×2=24通りのそれらを用意するのが面倒という事もありますがそれより、ギター1本に対して2本のマイクを距離を違えて立てる録音方法は、今回限りで止しにするつもりなので、詳細な記録は不要なのです。

 YAMAHA AE-2000の録音(2013年11月)もマイク2本の距離を違えて立てる方式で、この時はわりと良好に録れたと思う。しかし今回は、(マイク2本の特性が違いすぎたからなのか)ステレオ定位が不安定になるという悪影響の方が大きくなってしまいました。
 1つの楽器に対して2本のマイクが、ミキサー内でL/Rに振り分けてある(完全に左右均等ではないですが)。片方はオン・マイクで低域が多め。もう片方はオフ・マイクで高域が多い。だから、楽器の演奏音域が上下すると、定位は左右に揺れる。この揺れを無くそうとしてマイク2本の定位を合わせると、距離が違う=位相差があるための不具合が生じる。
 AE-2000の時もこの定位揺れと位相ズレの不具合はあったのですが、一応まあまあの音に仕上がった。ただ、ちょっと面倒な思いもした。今回のは更に面倒だった。だからもうこの立て方は止しにします。マイクを2本用いるにしても、次回からは別の立て方を試みたいです。

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 MXL R144はロー・ゲインなマイクだから近接で使う事が多い。そうなると(R144は双指向リボンにしては近接効果が大きいから尚さら)低域が過剰になる。そのためDAW上のEQでロー・カットしてるのだけど、そうするよりもまず立て位置に気を付けるべきだったです。R144をアコースティック・ギターにオン・マイクで立てる場合、サウンドホールは狙わない方が良いようです。それと、Focusrite Twin Trakにはハイパス・フィルターと中低域のカットに特化したEQが備えられてるのに、なんでそれらを利用しなかったのかと思いますけど、まあ次回からはそういった諸々にも留意いたしましょう。なお、オフ位置のペンシル・コンデンサ(MXL 600)に対してはハイパス・フィルターをONにしてます。リボン・マイクよりずっと感度が高いため、環境ノイズを大量に拾ってたからです。

 100Hz周辺をEQで削るのは、アコースティック弦楽器の概ね全てに特有の箱鳴りを抑えたいからなのだけど、ここで問題にしてる「箱鳴り」とは、弦を弾く(はじく)毎、それに附随して発生する打撃性の低域ノイズ成分の事で、これは弦楽器のボディ=木の箱を(弦を弾くという行為を介して)ボンボン叩いてるのに近い音なのでもある。だからこの成分はカホンとかバスドラムと同じ役割を担ってる場合もある。最も典型的なのは小編成ジャズでのウッド・ベースですが、フォーク・ギターにだって同じ成分はある。もちろんウッド・ベースよりもピッチは高く、ウッド・ベースの箱鳴りがバスドラなら、フォーク・ギターのはカホンやコンガ辺りに相当するかも。
 そして、音楽ジャンルによって、あるいはバンド編成とかアレンジによって、フォーク・ギターのこの成分は邪魔な場合もあるし必須の場合もある。だからフォーク・ギターを録音する場合、取りあえずテキトーにマイクを立てて、100Hz周辺が余分だったらEQで削れば良い、というのではなく、曲ごとのギターの役割に応じて、最適なマイクの種類と立て方をその都度選ばなくてはならない。しかし今回の作例でのバッキング・パートの録り方は3曲とも共通で、その点は少々杜撰だったかもです。

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ブロンズ弦とコンパウンド弦の違い;

 ダダリオのブロンズ弦を張って録った音と今回のを比べると、まるで別物です。自宅でちょろちょろ弾いてる分にはここまで違うようには感じられないのだけど、しかしマイクを通した音は全く異なる。現在のLL-6JはサドルとブリッジピンをTUSQに交換し、ダダリオの音を録った時よりも楽器自体は派手な音になってるのですが。
 しかし数年前にYAMAHA F-130にコンパウンド弦を張って録った音を聴いてみると、今回のと似てる面もある。となると、つまりこういうのがコンパウンド弦の音だという事になるのかも知れません。

 それと私のギター奏法も、前回LL-6Jを録った時とは多少違ってきてるかも知れない。クラシックギターについての記事で少し書いた、力まかせで無理やりではない鳴らし方云々、それは鉄弦のフォーク・ギターにも適用させてるので、奏法の変化が多少なりとも、録った音の違いに反映されてるのかも知れません……とこれは、奏法改造してる本人的にはそうであって欲しいと思う願望なのでもありますけど。
 なお、力まかせでないのは右手。左手は万力で締め付けてるくらいにしっかり押さえるのがギター奏法の基本だなどとは改めて言うまでもない事ですが、「左手はガッチリ、右手は楽に。なおかつ素早く動く」というのもそう簡単には出来ないもので(少なくとも私にとっては簡単ではない)、とっても今更なんですが最近はそういう点の改善も試みてるわけです。

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 今回の作例は全て私の自作曲です。フォーク・ギター用の曲としては数年前の作りかけがあって、新しい曲を書くよりそちらを先に完成させるべきなのかもだけど、このブログには完パケ品よりも、アイディアのメモや断片を陳列するのが相応しい(のではなかろうかという気もする)。
 それと、このところの記事では再三書いてる事だけど、まだ沢山残っている【お別れ録音】のやりかけを急ぎ完成させねばなのだけど、しかしそれらは全てカバー曲なのです。ところが2014年後半現在の私は、自作曲のアイディアを吐き出してしまいたい気分になっている。それで、最近買ったばかりのART VLAを試運転してみるという題目で1曲作り、同じ流れで今回もこういう事になりました。
 ボスのスライサーを使ってみた作例は正味三日で出来たから、VLAとLL-6Jのもせいぜい一週間ずつくらいで、つまり【お別れ録音】を仕上げる前のちょっと寄り道程度の期間でちゃっちゃと済ませられるかもという考えもありました。しかしそれは見込み違いで、ART VLAのための作例はBOSS GT-10のワウも使ってみる等々の副題も設けたため手間が増えた。LL-6Jの方は曲作りに迷い生じ、結局3曲まとめて録る事になった。結果、予想してたよりも2倍くらい長い期間を要してしまいました。

 LL-6Jにコンパウンド弦を張った音の作例には、YAMAHA FG-130の曲と同じようなフォーク・ギター2本の組合せで、この楽器ならではの特性を活かした曲が適してるだろうからそういうのを作ろう、という大まかな構想はあったのですが、そんな構想は大まかすぎて役には立たず、それをどう具体化するかはノープラン。あと、私には普段から作り溜めてるストックとかはありませんので、取りあえず「こんなのはどうだろう?」的な断片をばらばらと書き出してみる。そういうのはいくらでも作れるけど、いくらでも作れるだけに「これだ!」という一つに絞れない。それで結局、幾つか出たアイデアの内、没にするのは惜しいと思う3つを残し、それに曲としての最低限の体裁を与えたまでのもの、それが今回の作例です。まあ3曲に増えた分、録音方法は3通り試せたわけで、マイク・テストを兼ル型の記事になったのは後々役に立ってくれるかも知れません。




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 3曲あるうちの2曲目は、Black Fingerの【お別れ録音】と同じような路線の、カントリー(ブルーグラス)とファンクの合いの子みたいのを狙った曲だけど、曲タイプからするとギター2本だけなのは厳しく、とくにファンク属性の方が弱くなってしまった。パーカッションを一つ加えるだけでもその点は改善するのだけど、今回はギターの素の音を録る事を重視し、混ぜもの無しで押し通しました。ところで、

「短時間に大量の情報を処理する必要が生じ、そのため脳みそに負荷が掛かるのは快感である(という場合もある)。」

 仕事中にそういう事態は起こって欲しくないですけど、娯楽でなら、脳みそがパニックを起こすのも「お楽しみ」の一つである。「面白さ」にはいくつかの種類があって、パニックはその中の一つだという事です。典型的なのは、敵キャラが大量に湧いてくるシューティング・ゲームとかモグラ叩き。あるいはクイズ番組の「早押し」とか。それで今回の作例の2曲目は、その「娯楽としてのパニック」を音楽でもやってみようという試作品なのです。相互に関連が有りそうで無さそうなメロディの幾つかを、規則的なようで規則的でない順番で配置してある。曲形式は、ルーズなロンドのようなものです。

 もっと細かいメロディ断片をもっと大量に配置すれば、更に大量の情報を聴き手に与えられるけど、情報量が多いだけではパニックは生じない。処理し切れないのが明らかのほど大量の情報を与えるのはむしろ、「滑稽音楽」のための手法である。
 大量の情報は、それを処理できなければ罰(ペナルティー)が与えられる、あるいは、上手く処理できれば報酬が与えられる、という場合にのみパニック(娯楽性、あるいはゲーム性)が生じるのであって、処理できるわけがない程の大量の情報は、(娯楽という場では)パニックを生じさせない。映画・演劇等のギャグ・シーンでも、大量の情報を処理しきれずパニックになる場面は定番化してる。それらが滑稽なのは、大量の情報を処理できないからである。

 それと当然、演奏する側が与える情報が聴き手にとって「処理したい」という気持ちを起こさせる程度に魅力的なものでなくてはならない。

 複数のメロディ断片がデタラメに(相互の関連性が不整合に)継ぎ接ぎされると、滑稽なものと認識されやすい。だからそうならないよう、個々のメロディ断片は「処理されるべき情報単位」であると明確に(あるいは無意識的に)認識させ、それを的確に処理すれば報酬が得られる(と無意識にでも期待させる)、などという事が音楽でも可能なのかを考えてるわけです。

 エレメントが大量の情報詰め込み型の曲は、滑稽なデタラメ音楽になるか、情報インフレとカンフル効果を生じさせるだけになる。それで結局は飽きられる。だから基本的には情報は無闇に増やさず、必要最小限のエレメントで1曲を組み立てるべき。それが音楽の王道なのだけど、王道ばかりではつまらないというか、王道は外道があってこそのものだとも言えるわけで、だから必要以上に情報量を増やした、しかし滑稽音楽ではない、そういうタイプの曲を作れるものなら作ってみたいと思う。

 とまあ、なんで私がこういう事について云々してるかというと、これはTeisco J5の【お別れ録音】の記事の最後の方に書いた「時間の使い方」の続編みたいなもので、
「3〜5分の長さの曲を飽きずに最後まで聴いてもらうためには、とくに有節歌曲形式の場合は、その曲を聴く事で形成される短期記憶を消去するための仕掛けを適宜挿入する必要がある。」
というのはその時に確認した事だけど、しかしそれはアレンジの手法であって、今回の作例の2曲目は、曲自体を、短期記憶が錯乱されるように構成してる(少なくとも作者的にはそうしたつもり)。その、意図的に引き起こそうとしてる記憶の錯乱に娯楽性があるとしたら、それはゲームや映画・演劇での「パニック」に相当するものではなかろうかという話しで、まあ結果的に、今回の作例ではその「短期記憶の錯乱による娯楽性」が上手く生じたとは思えないんですけど、そういう意図のものだったという事は記録しておかねばなので毎度の事ながら、ここにこうして説明文的なものを書き残す次第。

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 楽曲とは「様々な高低・長短・強弱の音を、様々に組み合わせた状態」、ただそれだけのものである。それを人は「曲である」と認識する。その認識が可能なのは、曲とはこうこうこういうものだという大まかな概念(認識するための枠組み)を予め持ってるからである。曲という概念=曲概念とは、「音を様々に組み合わせただけのもの」を曲であると認識するための脳内のシステム(情報処理のための体系)なのでもあるが、それを成り立たせてる要素の一つは、音楽に関する長期記憶である。(言葉を覚える前の乳幼児は音程の連なりを曲として認識しない等の事から)それが形成されるには最低でも数年の学習期間を要すると考えられる。

 「様々な音を組み合わせただけのもの」を曲であると認識できるのは曲概念を持ってるおかげであるが、それが(数年間の学習によって)ある程度まで確立された後は、その曲概念に当てはまらないスタイルや内容の曲に対しては、好意的に受容するのを拒むようになる場合も多い。曲概念なくしては曲を認識できなが、確立された時点の状態を保とうとする自律性があるかのようで、つまり曲概念は(否定的意味合いでの)先入観に転化しやすいのでもある。

・人の脳の記憶容量には上限があるため(あるいは、その記憶を概念化する能力に上限があるため)、曲概念の拡張範囲にも上限があるのかも知れない。
・また、認識のための概念一般は自己同一性の基盤でもあるから、曲概念が多様性に富みすぎると自己同一性が不安定化する。なので曲概念の拡張範囲には制限が掛かってる、のかも知れない。
・また、「音感」(音程を聴き分ける能力)も音楽に関する長期記憶の一つであるが、ピアノの鍵盤の音を丸暗記する式の粗略な幼児教育で、いわゆる絶対音感=12音平均律しか認識できない、目の粗い笊(ざる)のような似非絶対音感を学習させられてしまった人は、非西欧のエスニック音楽の聴取を拒むようになる等々。

 ともかく、人が音楽を聴く時には、自分が持ってる曲概念、つまり音楽に関する長期記憶と、今ここで鳴ってる音とを照らし合わせながら聴いている。

・自分が初めて聴く曲(自分にとっての新曲)が、自分の曲概念と違いすぎると、それは曲として認識されない。あるいは「つまらない曲」「不快な曲」等と評価される。
・その曲が、自分の曲概念とピッタリ重なりすぎると「どっかで聴いた事があるような曲」と認識される。
・「どっかで聴いた事がある」曲が必ずしも「つまらない」とは限らず、それは「好き嫌い」の篩(ふるい)に掛けて評価される。まあ、好き嫌いを形成してるのも長期記憶なんですけど。
・その曲が自分の曲概念=長期記憶と違いすぎず、つまり曲として認識可能な範囲に収まっていて、しかも長期記憶との参照すり合わせだけでは処理できない情報内容を持ってると、人の脳は短期記憶を形成しようと作動し始める。
・初めての曲を聴く事で形成された短期記憶は、その曲を気に入って何度も繰り返して聴くと長期記憶に変化し、(その曲を聴いた分だけ拡張された)その人にとっての曲概念の一部となる。
(自分の既知の曲でも、それを久しぶりに聴いた時などはその都度、短期記憶も形成され直すのでしょうけど。)

 つまり人は、長期記憶と短期記憶とを関連させ合いながら、それらに支えられて音楽を聴いている。人が、(その人にとっての)新曲を聴いた時、それを「良い」「面白い」と評価したなら、それは(その人の中での)長短両方の記憶が上手くバランスされてるとか、この2種類の記憶の連係に好ましい影響が生じた、という事なのだ。これは音楽だけでなく映画・演劇・小説など、事象を時系列内に配置する形態の娯楽の全てに共通の事と思う。

 だから記憶は、「面白さ」とは何か?を考える際の切り口の一つなのでもある。「面白さ」を作り出さねばならない立場の人、つまり小説家・演出家・作曲家等々の人々は、観客の記憶に働きかけ、新たな短期記憶を形成するよう促せたら良いのだ。しかしそれはなかなか難しい。

 定番の手法は数々あります。人類の文明史数千年の間に積み上げられてきたノウハウのストック。それらは長期記憶との親和性が高い。だからこその「定番」なのだけど、定番なだけでは「どっかで既に見聞きした事がある」「ありきたりで退屈」な作品になりやすい。だから定番にはない手法も開発せねばで、「音楽でパニックを」は、そのための試みの一つなわけです。いや、これも昔から用いられてる手法なのかもだけど、ともかく要点は「短期記憶の攪乱」で、実は、パニックそれ自体はべつに発生しなくてもかまわないのだ。しかし、実際に短期記憶が攪乱されたなら、聴き手の心中にはパニック型の娯楽から得るのと似たような心理状態が生じる(という仮定が正しければ)、これによって短期記憶の攪乱に成功したかどうかを推し量れるわけです。

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 記憶は「面白さ」だけではなく「感動」とも関係がある。つまり、面白さを考えるための切り口の一つが記憶であるのと同じく、「感動」とは何か?を考える際の切り口の一つも記憶である。そこで、次のような仮説を立て、以下の話はそれに基づいてすすめる;

「感動は、長期記憶の大幅な更新によって生じる。あるいは、長期記憶が大幅に更新された際に生じる心理的衝撃を、人は感動と呼んでいる。」

 例えば、都会育ちの人間、都会の外には出ずに育った人間にとっての「日の出」とは、朝になると太陽が昇る、ただそれだけの事である。それが都会者にとっての「日の出の概念」である。とまあ一応そういう人がいたとして、それがある時どこかの海岸か山地に出かけ、大自然の中での日の出を生まれて初めて見ると、とても「感動」する。自分にとっての「日の出の概念」、つまりそれまで、日の出とはまあなんとなくこうこうこういうものであると思ってた先入観、それとは全く異なる「日の出」を目前にし、以前の「日の出の概念」が崩れ、新たな方を受け容れると、それは自己同一性が部分的に刷新されたという事であり、その時人は、その心理的・精神的経験を「感動」と呼ぶ。
 感動を経験した人は多かれ少なかれ、以前の自分とは違う自分になったような、まるで新たな人間として生まれ変わったかのような気持ちになる。なぜなら、自己同一性が一旦崩壊し再構成されたからである。だから感動に伴う感情は「すごい・楽しい・嬉しい」だけではない。喪失感と充足感、喜びと悲しみの感情が同時に押し寄せてくるのが感動である。
 「日の出」は、まあ実際のところはどこで見ようと、それはただ太陽が昇っていくだけの事なのだが、しかしそれでも人は、こんなありふれた事からでさえ、感動、つまり自己同一性を再構成するたものキッカケを得る事が出来る。

 自己同一性の基盤、それを構成してる要素の一つは、認識のための枠組みとしての「概念」。そして、概念を構成してる要素の一つは「長期記憶」。だから、芸能を通じて観客の心中に感動を生じさせるには、観客の、

1.自己同一性を破壊し、演者が与える情報に沿ってそれを再構成させる。
2.概念を破壊し、演者が与える情報に沿ってそれを再構成させる。
3.長期記憶の内容を、演者が与える情報に沿って書き換えさせる。

のいずれかを行えば良いのだけど、まず1.に関しては、これは洗脳とも呼ばれる、芸能よりも宗教とか自己啓発セミナーの類、その中でもかなりイカガワしい方の宗教だのセミナーだのの関係者が用いる手法で、まともな人は関わるべきではないし、少なくとも芸能という場で行うべき事ではない。
 2.は、1990年代あたりから定番化したJポップの宣伝文の一つでもあるのだけど(既成の概念を破壊してどーのこーの)、芸能の場でこれを主張するのはなんか幼稚な感じがいたしますわね(幼稚だからこそ好まれるのでもありますが)。
 舞台上で「新たな概念とはこうこうこういうものですよ」と説明してみせても、観客はせいぜい「わーすごい」とか「へえなるほど」と思うだけ。悪くするとでっていう感ばかりを残す結果となる。コンサートは演説会ではないのだから、これもやはり芸能という場で行うべき事ではない。
 3.は、例えば大自然に触れる機会の少ない都会者に雄大な日の出の光景を見せるための映像番組を制作放映する等の事になるかと思うけど、これによって観客の心中に生じるのは概ね2.と同じである。

 2.と3.は擬似感動なのでもある。こういうのを「本物の感動」だと思ってる人は多いかも知れない。実際、感動という言葉を軽々しく用いる人は多いのである。私自身の例で言うと、私は登山のテレビ番組が好きである。私の生活圏と行動習慣からすると、実際に訪れる事はまず無いであろう山岳地帯。それの映像を見るのは楽しいし、山地の景観は本当にすごいと思う。しかしそれは感動とは違う。何故なら先述した通り、感動に際して生じる感情は「わーすごい」だけではないからである。
 しかし、本当の感動を経験した事がない人にとっての感動とは、「わーすごいと感じる」というだけの事なのかも知れない。それでべつにかまわないという人もいるだろうけど、かまわなくはないと思う人もいるであろう。かまわなくはないけど、擬似感動とそうではないものとの区別に迷う、という人もいるであろう。世間に出回ってる「感動コンテンツ」は擬似の方がはるかに多く、それらはいくつかの種類に分類できる。
・強度の刺激
・過度の興奮
・達成感
・好奇心の肥大化
・センチメンタリズム(お涙頂戴もの)
等々。これらと、擬似ではない感動とは正しく区別されるべきである。芸能を商品として扱う者や公共放送/電波事業者は、客寄せのため意図的に(あるいは無頓着に)これらを混同して宣伝する事が多いので注意が必要である。

 それはともかく、他人の内部にある長期記憶を外部からの働きかけで書き換える事は困難である。というか事実上不可能である。仮に可能だとしても、それはしてはいけない事である。他人のではなく自分の長期記憶であっても、これを自分自身で(あるいは他人に手助けしてもらって)書き換えるのも困難(あるいは不可能)である。もしそれが可能ならトラウマの消去やPTSDの治療は簡単であるが、現実はそうではない。つまり、長期記憶というのはそう簡単に変えられはしないのだ。

 長期記憶に直接働きかけてそれを書き換えるのは不可能だが、長期記憶は短期記憶の積み重ねによって形成されるのだから、芸能という場で感動を生じさせようとするなら、演者は観客に短期記憶を与え、これによって観客の長期記憶が更新されるキッカケとしてもらうしかない。つまり感動とは、(少なくとも、芸能という場での感動とは)与えるもの・与えられるものではなく、人それぞれの心の中に、その人自身の力で生み出すものなのだ。
 感動に至るキッカケは外部にある。自分一人だけで感動を引き起こす事はできない。だから人から人へ、感動のキッカケを与える(受け渡す)事は可能だし、必要な事でもあるけれど、感動そのものを与える事は出来ない。
 この事から、擬似感動を見分ける基準の一つを知る事が出来る。すなわち「感動を与えます」と明言してる、またはそういうニュアンスを含ませて宣伝してるコンテンツは、概ね全て擬似感動であると判断できる。

(将来、科学が進歩すれば記憶を意図的に改変できるようになるかも知れない。そうなればイヤな事は全て忘れ、誰もが喜びに充たされた美しい心で生きていけるようになるかも知れない。しかしその未来像はディストピアである。なぜなら「良心」は記憶によって形成されるからという、この問題を扱った娯楽作品として私が思い付けるのはS.レム『ソラリス』と、それを映画化したA.タルコフスキーの「惑星ソラリス」。あとはP.K.ディックの『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』。どちらも「良心を失った人間がモンスター化して暴れ回る」みたいな分かりやすい筋立ての物語ではないので一般受けはしませんし、『ソラリス』はちょっと雰囲気が暗すぎ、その映画版はタルコフスキーの中では凡作・駄作の部類。なので私的にオススメなのは『三つの聖痕』。ディック諸作品の中でも上等の部類に入るものだと思います。

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英語版は何度か版を重ねており、だから表紙デザインも数種類あって、ここに貼った画像は(たぶんディックの没後にリイシューされた)シリアスな雰囲気のもの。しかし発表当時の頃の表紙絵はいかにもB級パルプフィクションといった風情で、ディック存命中の雰囲気も楽しみたいなら初期版の方が良いですね。)

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ここまでに書いた事を要約すると;
・短期記憶が更新されると「面白さ」が生じる。
・長期記憶が更新されると「感動」が生じる。
しかし、芸能を通じて働きかけられるのは短期記憶の方だけで、芸能の内容がキッカケになって感動が生じる事はあるが、芸能が与え得るのはあくまでもキッカケであって、感動そのものを与える事は出来ない、という事であった。

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 さて、芸能者が扱えるのは短期記憶のみであるが、実際はそれも、とくに音楽では、作る側・演じる側の意図通りの短期記憶を、観客の脳内に生じさせるのは困難なようにも思われる。

 通常言語(話し言葉/書き言葉)と視覚イメージとを用いる芸能、つまり映画・演劇等でなら、概ねどの作品でも作者が意図した通りの短期記憶を作り出せてると思われる。大抵の人は今見たばかりの映画の粗筋や、主役と脇役は誰で、彼らが何をしてどうなったとか、印象に残った場面はどこだったか等の説明は出来るから、それならつまり、その映画を見た事で、その映画に関する短期記憶が形成されたのだと判断して間違いない。
(それでも中には、事前にパンフレット等で内容を”予習”しておかないと話しの筋を理解できないという、かなりアレな人も少数ながら客席に紛れ込んでるらしい。つまりスクリーンを見ながら短期記憶を生成できないらしい。見ても分からないのに見たがるという時点で既に謎な仁であるが、またそういう人に限って見た事そのままをブログ等に書き晒す。つまり、もろネタバレをやらかしたりもする。映画を見ても中身が分からないという事は、本当は映画なんて好きでもないし楽しくもないのだ。なのに見ようとするのは、見なければならない何らかの理由--自分自身の欲求ではなく他人から強制された理由--があるからかも知れない。本人は自分の意志で見に行ってるつもりかもだけど、意識下ではイヤイヤ見てるのだ。だからそのテの人は、普通に映画を楽しめてる人達の間の約束事も理解できない。つまりネタバレが禁じられてる理由が理解できないし、この約束事を守る気もない。そのくせ感想文を書きたがる。迷惑千万極まりない。)
 とまあそういうレア・ケースを除けば、映像ストーリー・コンテンツでは概ね常に、短期記憶の形成は成功してると思われるし、観賞後に内容を説明してもらえば、実際どうだったかを確認できる。

 では、音楽ではその点どうであろうか。例えば、発売されたばかりの新曲を聴いて「今の曲、良かったね。」と言ってる人に、じゃあどんな曲だったかちょっと歌ってと頼んでも、一度聴いたきりの曲をすぐにスラスラ歌える人というのはあまり多くないように思われる。楽器をやってる人なら、その新曲のメロディを(大まかにでも)楽器でなぞってみせてもらう……楽器が趣味の皆さんは、それが出来ますか?それが出来ないという事は、一回聴いただけでは憶えられない、つまり短期記憶は形成されてないという事である。(ちなみに、頭の中ではその新曲のメロディーが鳴ってるのに楽器では鳴らせない、というのは論外である。頭の中で鳴ってるものを楽器でも鳴らす、という事が出来ないなんて、そりゃ一体なんのために楽器を手にしてるのかという話しなので。)
 私はこの、聴いたばかりのメロディを弾いてみるというのを、訓練として、時々やってます。しかしまるで出来ません。それは私の音感が悪すぎるという事かもで、そういう自分を基準に世間全般を評価してはいけないかもだけど、やはりどうも、通常言語と視覚を用いる芸能と比べ、音楽で短期記憶を形成するのは困難であるように思われます。

 記憶力・暗記力の良し悪しには当然個人差があるのだけど、中には、初めての曲を1回聴いただけで暗記し、それを即座にピアノで弾いてみせる(左手で伴奏、右手でメロディ)という事の出来る人もいる。TVのドキュメンタリー番組だったかで紹介された事もあるから知ってる人も多いかと思います。しかしこれは知的障害のある人が稀に持ってる特殊能力で、これが特殊な事例と見なされてるという事はつまり、1回聴いただけでは暗記できない人の方が大多数だという事なのだ。だからやはり、映画・演劇と比べて、音楽に関する短期記憶は形成されにくいと考えて間違いなかろうと思う。

 つまり音楽とは、憶えにくいものである、というならそれはそれでかまわないのだけど、ただ今回の私の作例の2曲目は短期記憶を意図的に操作する試みで、それは「短期記憶は聴いてる脇でどんどん形成されてくものだ」という考えを前提にしてる。しかし1回聴いただけでは短期記憶は形成されないのなら、私の発案は根底からワヤになってしまいます。短期記憶が形成されなければ、この曲で私の試みた事は聴き手には全く伝わらず、つまらない/平凡な/デタラメな曲と判断され、1回こっきりでハイサヨナラされてしまうかも知れない。

 1回聴いただけでは短期記憶は形成されないのだとしても、3回くらい聴いてもらえれば少しは違ってくるかも知れない。しかしそうなる前に「つまらない」と評価され、もう2度と聴いてもらえなりそうなのが、作者としては辛いわけです。

 ただ、記憶力には個人差があって、音楽に関する短期記憶の形成力が高い人なら、私の曲を聴いて(好印象は持たないにしても少なくとも)何かしらの意図を汲み取ってもらえる可能性はある。
 音楽のための記憶力の良し悪しを左右するのは、まず第一には音感。初めての曲を聴きながら、その場で頭の中で譜面化できる程度に音感の良い人は、そうでない人と比べ、記憶力の面でも有利であろう。即座に譜面化できるほどの音感が無くても、その代わりリズム感が良ければ、あるいは曲構成の全体像を把握する能力が高ければ等々、何かしらの特技があれば、それが無い人よりかは、短期記憶の形成能力は高いであろう。
 音楽のための記憶力の良し悪しを左右する第二の要素は、曲概念の質と内容である。人は曲概念に依って曲を把握する。だから、今ここで鳴ってる曲と、それを聴いてる人の曲概念との相性の良し悪しで、短期記憶の形成具合は左右される。今回の私の作例に即して言えば、カントリーやブルーグラス、あるいはファンクをよく聴く人、つまりそれらのジャンルの曲に関する長期記憶を多く持ってる人なら、そうでない人よりも私の作例を把握しやすい(に違いない)という、まあ言ってみればこれは当たり前の事ですが。

 私が、常に一定のジャンルの曲しか宅録しない者であれば、つまり例えば「当ブログの管理人はジャズ・ファンで、宅録でジャズやってます」みたいな分かりやすい看板を出せるのであれば、長期記憶の相性の良いリスナーの割合を高められるのだろうけど、私のこのブログは自分の好きなもの、なおかつ自分で演奏可能なもの、その全てをやってみるための場なので(という方針にいつの間にか成ってしまった)、だからジャンル的な統一性は弱く、一体どんな人が何を求めてやって来るのかを予測できないのではありますね。
 そう考えると、ジャンルによる区分け・線引きというのにも合理性と必要性はあるのかなという気はしてきます。インターネットのおかげもあり、世界中の音楽の中から自分の好きなものを探し出せるため、音楽ジャンルがかつてないほど多様化し細分化した現在だからこそむしろ、自分の音楽を分かりやすく聴かせるためには、ジャンルの縛りを利用すべきではないのか?でもまあ、私はこのブログでの「何でもあり」な方針を変えるつもりはありませんです。

(なお、映画・演劇での短期記憶についても本当は、それを形成する能力の個人差はかなり大きく、映画を見てもよく分からない、というのはわりとよくある事なのだ。ただ、ポスターの絵柄と作品タイトルからして「いかにもムズカシそう」な雰囲気を漂わせてる映画というのはあるもので、つまり分かりやすいかどうかは事前に、何らかの形で告知されてる。だから以前に一度、うっかり分かりにくい方のを見てしまって「分からなくて、つまらない」という経験をした人でも、同じ過ちは繰り返さずに済む。それで無用な混乱は生じないようになっている。ただ稀に、分からないと知ってるのにイヤイヤでも見ようとする人がいて、イヤイヤ見るのは見栄のためだから”見たよ”という事は周囲に吹聴せねばならず、分かってなくないアピールのためにはネタバレもしてさらす次第である。音楽でも、例えばジャズに「ムズカシそうだから」という理由で手を出し、やってはみたもののモノにはならず、しかしそれでも”自分は昔ジャズ教室に通ってた”というのを勲章ででもあるかのようにチラつかせてる仁というのはいるもので、要するにこれ全て”スノッブ”の行動パターンという事ですね。)

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 マスメディアが強力だった時代、つまり、マスメディアによる世論の統制と、それを個々人に受容させる強制力が充分に機能してた時代は(例えば1990年代より以前の日本は)、そうでない時代と比べ国民大多数の価値観は画一的だったので(少なくとも2014年現在の日本よりは画一的だったので)、曲概念も、メディアが推奨するものが多くの人に共有されてたのではなかろうか。曲概念が共通なら、個々の曲に対するの好悪の反応も揃いやすいだろうから、その分ヒット曲も生まれやすかったのかも知れない。
 新曲をちょっと聴いただけでは憶えられない。しかし同じ曲概念を持つ者が多数いて相互補完し合いながら聴けば、一人きりで聴くよりかは憶えやすい、という事もあったかも知れない。また、曲概念があまり多様化してなければ、新曲といっても実は前の曲と似たようなものである場合も多く、その分憶えやすい、という事もあったかも知れない。
 その頃の、年間チャートの上位にランクインするような曲は国民的大ヒット曲などと呼ばれ、実際、その名に値するものだった。大抵の日本人なら大まかにでも歌詞を憶えていて鼻歌ででも歌えた。およそ1980年代頃までの日本のヒット曲というのは、そういうものだった。

 今振り返ってその頃を思い出すと、ホント気色悪い時代でした。今はそういうのが無くなって、それで日本全体としてはその頃より良い社会になったのでもないけれど、少なくとも、流行してるものを知らなかったり興味を持たないのはオカシイと見なされる風潮が弱まったのはありがたい事です。
(とはいえ今でも例えば、まだガラケを使ってるのは死ぬほど恥ずかしいみたいな、そういうのが無くなる事はないのですが。)
 大ヒット曲が生まれちゃいけないと言いたいのではないですよ。逆に、統制メディアが無い現在の状況でも国民の大多数が知ってるレベルのヒット作を生み出せるなら、それはすごい事だと思う。しかしその可能性は低い。80年代より以前は、そういうのを作る「仕掛け」が機能していて、国民の大多数がそれを容認してた。しかも、その「仕掛け」に無理やり従わされてたのではなく、自らすすんで、しかし無自覚に、つまりいわゆる「空気を読んで」、この体制の維持に協力してた。それが気色悪かったという話しです。

 その、マスメディアが強かった時代には「万人受け(ばんじんうけ)するタイプの曲」というものがあって、そういうのがヒットし易いんだみたいな事を言う人がわりといたものです。しかし実際は、
「万人受けする曲を好む人は多いだろう、と考える人が多かった」
のではなかったろうか。つまりケインズの美人投票(の変形)みたいなものですね。今でも時々、いまだにそういう事を言う人を見かけますけど、真っ白な紙を渡されて「何でも好きに、自由に絵を描いていいよ」と言われたら、何を描けばいいのか分からなくて困る、というタイプの人にとっては、統制メディアが大まかな下書きを用意してくれてた時代の方が良かったのかも知れない。私は、そういうのはもうお断りなので、真っ白な紙に、手探りをしながらででも、自分が描くべき事を描いてくしかない。とはいえ全てをゼロから新たに作るというのも無いもので、だから例えばブルーグラスとファンクを混ぜて云々。これを解せる人は殆どいないかもだけど、もともと万人受けしようとは考えてないのだからしょうがない。

 ただ今回の曲でも、これにもう少し器楽的な面白さを盛り込んだなら、つまりギター2本の絡み方を複雑化させるとか、早弾きを混ぜるとか、あとはやはりギター以外の楽器も混ぜるとかをして、音の表層を追うだけでもそここ時間潰しくらいにはなる、という装いに仕立てれば、短期記憶がどーこーとかに興味がない人にでも1回こっきりではなく複数回聴いてもらえる可能性は生じるわけで、だからまあ、やはりそういう事も大切なのではありますね。

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 ところで、音楽を聴くという事は、個々別の聴取経験=短期記憶を積み重ね、それを長期記憶化し、それを元に曲概念という抽象物(あるいは情報処理システム)を、自分の脳みその中に組み上げていく事である。だからそれは(けして理詰めではないし、意識的に行ってるのでもないけど、それでもやはり音楽を聴くのは)それなりに知的な行為である。

 音楽には、多数の人間を一つの集団にまとめ、協調的に行動するよう促す働きがある。そのため音楽は、宗教、祭礼、労働、軍事行動等で重用される。そうなる理由は、基本的に音楽とは「誰もが理解できて、理屈抜きで楽しめるもの」だからである。しかし音楽は、ただそれだけのものではない。

 音楽とは、作曲者あるいは演奏者の”気持ち”や”心”が音に込められ、それがテレパシー的な魔法(まほう)の力で聴く側に伝わるものとかではなく、様々な音を様々に組み合わせただけの、一見無意味な記号の羅列にすぎない。それは一種の暗号でもあるから、ここから何らかの意味性を読み取るには、予めその暗号の解読法を知っておかねばならない。曲概念とはつまり、暗号の解読法のようなものでもある。

 しかし、音楽とは「アタマを空っぽにして心で感じるもの」であって、記号を読み解くなどという、そんな理屈っぽいものではないと主張する人は多い。実際、曲概念=記号の解読法を知らない(あるいはごく初歩的で幼児的な曲概念しか持ってない)「音楽ファン」は多いのだが、仮にそれを全く知らなくとも、歌詞のある曲なら、歌詞から意味性を得られる。あとは顔芸とかステージアクション(身ぶり手ぶり)、また、歌詞のないインスト曲の場合は、作品の成立経緯(何がキッカケで、どんな想いを込めて等々)とか、耳が聞こえない現代のベートーベンが書いた曲だからスゴイ等々の説明書きによって意味性が補足される。あとちょっと変わったところではオーディオ装置の接続コード類を交換すると音がぴゅあっぴゅあ☆になったりならなかったりとか、楽器をやりたいけど音感は悪いという人でも、楽譜を買って、それを見ながら指を動かせば音楽をしてる「ような気分になれる」とか、そういう、音の読み方を知らない人にも音楽を楽しんでもらうための仕掛けは色々用意されているので、だからまあ、アタマが空っぽでも音楽は楽しめる事になっている。

 昔の人……1960年代頃までの日本人は、ガマの油に薬効はないと知っていても、それを売り歩く大道芸人の売り口上に投げ銭をしたものである。その後、日本は更に豊かになり、人の心も豊かになり()、今では縁日屋台の流れ者に代わり、CDを製造販売する大企業や電波事業者が「音を組み合わせただけのもの」を霊験あらたかな呪い道具(まじないどうぐ)ででもあるかのように宣伝するのだが、19世紀のヨーロッパ=フランス革命を経て共和制国民国家が成立した19世紀ヨーロッパで「音楽の大衆化」が始まって以来、こういうのはずっと続けられてきた事なのではある。インスト曲の意味性を言葉で補完するロマン主義や標題音楽がその頃に主流となり、20世紀になって録音術と電波メディアが利用され始めると、その方向性は更に強化された。

 2010年を過ぎた頃、Jポップで売れるのはAKBかエグザイルばかりという状況になった時、それを「日本の音楽産業はDQN相手の商売に堕した」と評する人もいたのだけど、流行歌産業がDQN相手だなんてのは今に始まった事ではなく、音楽の大衆化が始まった時、つまり19世紀の頃から多かれ少なかれ、音楽産業はDQN相手のものだったですよ。
(まあ流石に最初はそれほどアレだったのでもなく、まずは良家の婦女子=ポエるお嬢様とそのお母様の類の人種がターゲットになり、それから色々あって現在に至る。)

 聴く側のためだけでなく、アマチュアにも演奏をさせる方向での音楽の大衆化、つまり「楽器の大衆化」も19世紀には開始されていて、それは大衆化である以上、「音の読めない音楽ファン」にも間口を開く方向で販路を拡大し続けた。
 それで例えば、2009年に深夜アニメ「けいおん!」がヒットした結果、左利き用のフェンダー・ジャズ・ベースが大量に売れて云々。その時、「楽器はアニヲタのためのコスプレ用品じゃない!」と息巻く人もいたのだけど、楽器メーカーはずっと以前から広告の宣伝文で「有名なプロの誰それも使ってる」というフレーズを多用してた。つまり楽器は元々、(広い意味での)コスプレ・グッズとしても販売されてたのは暗黙の了解事項で、2009年にはたまたま特定の製品へのリクエストが短期間に集中したため、この、楽器という商品に付帯された潜在的性質が(少々あからさま過ぎる形で)露呈したにすぎない。だからこういった事態に対して今更のように腹を立てるのはいかがなものか。

 音楽とは「様々な音を様々に組み合わせただけのもの」であり、楽器とは「様々な音を様々な仕方で鳴らすための器具」である。ただそれだけのものである。しかしそれを、伝説上の人物(ジミヘンとか)に近づくための魔術礼装(というかコス用品)ででもあるかのように思い込んだり(変身ベルト型玩具としての楽器)、
・あるいは武器(モデルガン系玩具)、あるいは相棒とか恋人(人形系玩具、としての楽器)、
・あるいは、愛と平和のメッセージを振りまく魔法のステッキ(……ステッキも魔術礼装なのだけど、変身ベルトはboyishな玩具で、じゃあまあステッキはgirlshな玩具、としての楽器)、
・あるいは、由緒来歴が付け加わる事で価値が増す、骨董品としての楽器。
等々のように、「音を鳴らすための器具」以外の意味付けをして楽器を売買するのは概ね全て、「楽器の大衆化」のための方便である。ちなみに私自身はベルト&ステッキ&骨董品派かなと思う。

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 それでまあ実際のところ、音の読み解き方を知らない人をも音楽市場に取り込めれば、その分売上は増大するのである。そして、音の読めない人にもレコードや楽器を買わせるのに成功した音楽産業の諸企業は巨大化した。そしてその後は、その巨大な企業規模を維持するには音を読めない人々を囲い続けなければならなくなり、そのため大手レコード会社や楽器メーカーの宣伝文の基調は概ね常に、「音楽は誰にでも楽しめるもので理屈は不要」である。楽器メーカーの場合は更にそれに「誰でもカンタン、すぐできる」が付け加わる。そういうのとは逆の立場の、いわばエリート主義的な「分かる人にだけ分かればOK」な音楽観は、すこぶる評判が悪い。

 見ても分からない映画を見たがる人がいるように、「音楽の大衆化」という一種の政治運動に煽られて、好きでもない音楽を好きなような気分にさせられた人、というのはいるものかも知れない。レコード会社に囲われて、あたかもその飼い犬のように行動し発言するのを自分の役目と心得てるかのような「音の読めない音楽ファン」(という人種がいるのなら)、彼らにとって、音は読むものであるという主張、そういう音楽観は嫌悪の対象であり、排除すべきものなのかも知れない。

 音楽は理屈抜きで楽しめるものであるが、(歌詞や説明書きではなく、音そのものを)「読んで理解するもの」でもある。読んで理解すべき音楽とはつまり、書籍と同じようなものである。そして(音ではなく紙の方の書籍でも)、「商品としての書籍」は、必ずしも読むためだけの理由で買われるのではない。例えば、応接間の壁飾りとして百科事典を買う……なんてのは今の人はしないかもだけど、昔はそういうのがわりとあった。あるいは楽器の教則本を、実際にはそれで練習するのでもないのだけど、それでも教則本は、なぜか買いたくなるものである。中には、色々な教則本を次々と買い集めるのが趣味のようになってる人もいる。教則本という書籍は、「楽器やろうぜ!」な気分を盛り上げるためのアクセサリーとして利用できるのだ。
 ベストセラーになるような小説や類学書では、売れれば売れるほど「買ったけど完読されない割合い」は高まるとも言われる。つまり「ヒットしてるらしいから自分も買わなきゃ」という理由で書籍を買う人も多いのである。また、頭が良いっぽい人なら読んでて当然の古典的名著の類にも似たような事情があって、頭の良い人の仲間入りをするにはそういうのを読まなくちゃだから買うのだけど、読んでもさっぱり頭に入らず、完読できずに終わってしまう。
 このように、普通の書籍でさえ、常に必ず「読むため」だけの理由で買われるのではないのだから、音楽だって、それの読み方を知らない人が買ったって全然OK、なのであろうか?

 今は昔とは違うかもだけど、昭和の頃までの出版社というのは「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」式の商売をしてた(らしい)。つまり、何が売れるか分からないから、取りあえず何でも出版してみる。だけどまあ、たいていはまるで売れませんので赤字です。しかし運が良ければ、ごく稀にヒット作が生まれる。一つでもヒット作をものに出来れば大儲けできますから、それで無駄玉分の赤字を埋め合わす。以下その繰り返し、というビジネスだった。
 だからベストセラー本というのは、読まれようが読まれまいが、とにかく沢山売れさえしてくれればオーケーなものなのです。重要なのは、ベストセラーでの儲けが回り回って、まるで売れそうにもないその他の大多数の本にも出版機会を与えるための財源になってる事で、何が売れるか分からないから、出来るだけ色々なものを出版してみる。つまり下手な鉄砲を乱射する。それが結果的に、書籍という公益文化財の目録数を豊かにし、内容を多彩にした。しかしそれも「先立つもの」があればこその話しで、「買っても読まない人」が支払った分も、この産業構造を支える礎の一つになってくれている。買っても読まない人の購買行動も、けして無駄な事ではないのです。
 ムズかしそうな本を買ってはみたけど読めなかった。教則本を買い集めてはみたけど楽器は上達しなかった。けれどその購買行動を止められない、という状態が長引くと、買うだけ買って無駄になった書籍の山が、まるで「ダメな自分」のシンボルのように思われてきて鬱になったりもするのだけど、たとえそれらが買った当人には益しなかったとしても、社会全体から見れば、その購買行動は有意義なのだ。だからこういう場合には、かの有名な定型文、
「本なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。」
これを心の支えにして、今後もよろしくお願いいたします。

では、音楽業界についても、上記と同じ事が言えるのだろうか?つまり、書籍での「買っても読まない」層の購買行動は有意義であるのと同じく、音楽での「読まない(読めない)」層の購買行動も有意義なのであろうか?

 まず、レコード業界のビジネス・モデルも「下手な鉄砲」式なのであろうか?1980年代頃までの日本の歌謡曲には、ノベルティ・ソングや珍曲・奇曲が多かったし、音楽が専門でない芸能人によるレコードも多かった。という点では、書籍の出版と似たようなところがレコード産業にもあった。

(ファッション業界に倣ったのか、レコード業界でも、業界全体で結託して流行トレンドを作り出そうとしたりもしてたようですが、例えば70年代の初頭、「モーレツからビューティフルへ」な風潮に沿うように、日本の歌謡曲の土俗的で古くさい雰囲気を刷新し=つまり演歌を排除し、以前にも増して洋楽志向を強めた洒落乙なサウンドを主軸に据えようとしてたその矢先、どっかのお笑い芸人が何かのついでに作ったような、しかもこれ正にど演歌といった曲調のレコード=ぴんからトリオ「女のみち」が、300万枚を売る大ヒット曲になってしまうとか、あと、とくに目立つヒット曲を書いた事もない二線級の作曲家がアニソン歌手に提供した子供番組の挿入歌=子門真人「およげ!たいやきくん」が史上最大のヒット曲になってしまうとか、そういう、何がヒットするか分からない行き当たりばったりな世界だったです、昭和の歌謡曲というのは。)

 それがある時期から(80年代の中頃?)、一つの商品(アーティスト)に的を絞って、膨大な額の宣伝費を用いるなどして必ずヒットさせる、いわば力業で、あるいは販売手法上でのヒットの法則でヒット曲を作り出す、という事をし始めた。そして90年代のメガヒット期へ。

 アメリカのレコード業界では70年代に、大手のレコード会社が極度に巨大化し、それまで無数にあったインディーレーベルを吸収合併するか潰すかして、大手数社による事実上の寡占状態を作り上げた。アメリカのレコード業界も元々は行き当たりばったりなものだったが、そして電化ブルースとロックンロールとソウルという、20世紀後半のポップスの主軸となるジャンルを生み出したのはインディーレーベルなのだが、大手の支配力が強まると、そういう市場を攪乱する要素、「何がヒットするのか分からない」という予測不可能性は排除され、音楽市場はレコード会社の支配下に置かれた……と言われるが、ポップス界は創造性を失ったとも言われ、ともかくそうなって以降は「販売戦略」によってレコードを売るしかなくなった。

 そして日本のレコード業界は(もともと大手数社による寡占状態だった事もあり)、アメリカのやり方に倣ったのではなかろうか。それはメガヒット期を生じさせもしたが、そうなって以降の販売手法は、出版目録の多様性を生じさせない、むしろその逆に作用するものになった。

 とまあ以上の事はソース無しの推測を多く含むのでアテにならない面もあるけど、この観察に多少なりとも正解が含まれてるなら、そして更に、このビジネス・モデルを支えてるのが「買うけど読まない」型の音楽ファンであるなら、書籍での「買うけど読まない」層に対しての肯定的な評価と同じものを、音楽での「読まない」ファンにも与えるわけにはいかない、という事になる。つまり、現在の音楽産業を支えてるのが「音を読めない音楽ファン」であるなら彼らの購買行動は有意義なのだけど、しかし現在の音楽産業には買い支えられ維持され続けるべき価値がない、のだとしたら、それを維持するための労力と画策の全ても無価値だ、という事になる。

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 人間以外の生物は、音楽という「様々な音を様々に組み合わせただけ」のものから、何かしらの意味性を読み取ろう(感じ取ろう)とはしない。つまり動物は、音の連なりを「音楽」であるとは認識しない。
(飼い慣らされた家畜は特定の音に対して特定の反応を示すが、それは人間が音楽を聴いてあれこれ思いを巡らすのとは全く異なる。)
 言葉を話すのは人間だけであり、音の連なりに何らかの意味性を見出せるのも、人間だけである。だから「音楽はアタマを空っぽに」派の人も、様々な音の連なりを音楽であると認識できてるなら、少なくとも牛馬犬猫以上の知性を介して音楽に接してるのだ。つまりアタマ空っぽ派の人も、実際はアタマは使ってるのだ。しかしそれでもあえて殊更、アタマは使うなと主張する。それは何故か?

 「音楽は、音を楽しむもの」というのもよく言われる事である。こういう、漢語を分解して本来の意味とは違うものに再解釈する言葉遊びがいつ頃から定着したかは不明だけど、かの有名な頓知歌謡、

明日という字は明るい日と書くのね

これが登場して以降に「音楽は音を楽しむ」も広まった(ような気がする。ソース無し)。江戸時代に既に「音楽」という語は用いられてたが、本来は「楽(がく)」であり、それに一文字を足した「雅楽」「式楽」「音楽」等の派生語が、状況に応じて使い分けられていた。明治期に西洋の学術用語、とくに様々な抽象概念が漢字熟語で翻訳され、英語の"music"には「音楽」が当てられた。しかし"music"の語源のギリシャ語ムーサと、そこから派生したラテン語その他のヨーロッパ各国語には「音」という意味も、「楽しむ」という意味も含まれてない。音楽は「音を楽しむもの」なんて事を言ってるのは日本人だけである。実際のところ、音楽の、
・人間にとっての有意義性を自明の事とし、
・それを自分の行動で表明する必要性を感じ、
・それを(たとえ不完全であろうとも)実践してる人。
そういう人は、「音楽は音を楽しむもの」だなんて事は言わない。これは本当の話しです。音楽と上記のように接してる人にとって「音を楽しむ」なんてのはわりとどうでもいい事で、音楽をやってれば楽しい事もあるし辛い事もある。学校や会社に行くのと同じです。辛いからといって止められるのでもなし。それでもあえて「音楽は楽しい」と言う場合があるとしたら、心が折れそうになった時に自分を鼓舞するため、それくらいのものであろう。「音楽が楽しい」なんて、言わずに済むならそれが幸せなのである。

 では、「音を楽しむ」派の人が、あえて殊更それを言明するのは何故なのか?彼らは実は、音楽というのが何かをよく分かっておらず、従って音楽を楽しめてはおらず、だからわざわざこれを言明する必要があるのではないか?
 さてこの事と、「アタマ空っぽ」説とを組み合わせてみる。つまり、「音楽はアタマを空っぽにして心で感じるもの」と主張する人が、同時に「音楽は、音を楽しむもの」とも主張してる場合があるとしたら、それは、

・どんな人でも様々な音の連なりを音楽であると認識するには知性を要する。つまりアタマを使う必要があるのだから、
・まず最初はアタマを使って音楽を聴いていた。→しかし音楽を楽しめなかった。→それはきっと、アタマを使ったせいだろう。

という思考経路を経た結果、「音楽は音を楽しむもので、そのためにはアタマを使ってはいけない」という結論を導き出したのではないかと想像できる。

 それはともかく、人間は誰でも多かれ少なかれ、知性を介して音楽に接してる。知性がゼロだと人間同士の会話は出来ない。それと同じく、音楽を認識するためにも知性は必要なのだ。しかし、その知性が上手く機能してない人は多いのかも知れない。

・音の連なりを曲であると認識するには、音という暗号の解読法、つまり曲概念の持ち合わせが必要である。
・曲概念は、音楽に関する長期記憶によって形成される。
・長期記憶を形成するのは短期記憶、つまり個々の曲に対する聴経験である。

 しかしそうなると、人が音楽を聴き始める一番最初の段階では、個々の曲に対する聴経験がまだ無く、だから当然、音楽に関する長期記憶も無く、だから当然、曲概念も無いから音を曲として認識する能力も無いわけである。人は誰でも、この状態から、音楽を聴く事を開始しなければならない。これはつまり、誰も見た事がない古代文字の碑文を発見した考古学者のようなもので、解読するための手掛かりを一つだけでも見つけられれば、そこから先は芋蔓式に解きほぐせるのだけど、その「最初の一つ」を見つけるのが最も難しい。それと同じく、人が音楽を聴く経験を積み重ねてく中で最も難しいのも、一番最初の、たいていは乳幼児期での、曲概念をまだ一欠片(ひとかけら)も持ってない段階での音楽聴取ではなかろうか。

 人は幼児期に言葉を覚える。と同時に曲概念も手に入れる。大人になってから外国語を覚えるのは難しいけど、母国語は、いつの間にか自然に話せるようになった気がする。しかしそう感じるのは、母国語を覚えた時の苦労を忘れてるからで(というか、その苦労を自覚できる程の知性が育つ前に、最も困難な”最初の手掛かり”を手に入れてしまってるので)、母国語は誰でも普通にカンタンに話せるのだと、ついそう考えてしまう。そして、この感覚を音楽にも当てはめ、音楽も、殊更な学習を経ずとも「誰もが理解できて理屈抜きで楽しめるもの」と思いがちである。
 しかし実際はそうではない。大人になってからの外国語学習が困難であるように、大人になってから、幼児期に身に付けた曲概念だけでは理解できない種類の音楽を理解できるようになるのは困難である。聴いた事がない種類の音楽に出会うたび、それを聴取理解したいなら多かれ少なかれ、解読するための手掛かり見つけ出せない「一番最初の苦しみ」を繰り返す事になる。

 なので、小知恵を回せるようになった大人は、その苦しみを避けようとする。まず大抵の人は、理解しにくい音楽を理解しようとはしない。その次にお手軽な方法は、解説書等の文字情報に頼って、分かったような気になる事である。言語に例えればこれは、外国文学を翻訳だけで読んでるようなものである。あとはまあ、「テレパシーを受信しして心で感じればOK」な行き方とか、ともかくその「最初の一つの手掛かり」を見つけるための苦しさを避けるための手段は様々あるので、幼児以上の音楽的知性を身に付けるための機会を自ら閉ざすのは容易である。従って、「音楽のための知性が上手く機能してない人は多いかも」云々の以前に、そんなものをわざわざ苦労して拡大したがる人など、ごく少数に過ぎないと考えるべきであろう。

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(↑この写真は近所の桜の枝先@2004)

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個々別の曲に対する聴取経験が、最終的には抽象化された曲概念となる。そのプロセスの進行経路を簡略に図示するとしたら、その外見は逆ツリー型となる。(多から”一”へ)
その概念が基幹として確立されると、その後に聴取される個々別の曲はツリーの末端=”葉”に相当し、この状態での認知プロセスの経路は循環、あるいは往復する(とでも呼ぶべき)ツリー型となる。(多から”一”に至り、再度、多の中の”一”へ)

 つまり人は、脳内にあるツリー型の情報処理システムを用いて、聴取経験を曲概念へ抽象化する。曲概念とはツリー型システムの幹(みき)である(という仮想モデルを用いて以下の話を進める)。
 すると、「音を読めない(読もうとしない)音楽ファン」とは、このツリーの幹と葉との連結に不具合がある人なのではないかと仮定できる。

 まずそもそも、「ツリーの幹が充分に育ってない」という人はいるであろう。しかし、たとえ細く小さな幹であっても、それに見合った内容の曲だけを聴くなら、文字情報に頼ったりアタマ使うな派になったり等の右往左往をせずとも済む。しかし小さな幹に相応しい曲といったら、やはり「子供っぽい曲」ばかりかも知れず、そんな自分はいかがなものかだから幹をもっと太くしたいと思う。しかしそのためには「聴いた事のないものを解読するための手掛かり」を発見せねば云々は先述の通りで、これをツリー・モデルを用いて言い換えると;
「聴いた事のない種類の音楽を理解できるようになる事」とは、「それ用の新たな枝を幹から生やす事」
である。それが困難な事なら(私は困難だと思う)、それを試みる人はごく少数に違いない。解説書やら心で感じて云々なら枝を生やす必要はないが、それは分かったふり云々も先述の通りである。

 それとまた、(悪い意味での)先入観として先述した通り、一旦成立した曲概念=ツリーの幹の支配力が強すぎ、これが変更され傷つけられるのを拒否するようなると、その原因となりうる外部情報の流入はブロッキング(阻止・堰き止め)される。
 この、情報流入に対するブロッキングが何才くらいから始まるか、そしてこれの解除が可能かどうかは人それぞれであろう。早くも10代で閉鎖され、以後は二度と開かない、という人も中にはいるであろう。
 中高年になってから情報ブロッキングが起きれば、それは「最近の曲は好きになれない聴きたくない」という表れ方をする。これはまあよくある事である。
 若い段階で情報ブロッキングが起きてしまったら、若いだけにまだまだ新しい曲は聴きたいつもりでいるだろうから(あるいは自分の周囲の”音楽仲間”と話を合わせるため新曲にも興味がある”ふり”をせねば等々の理由から)、脳みその芯と耳の鼓膜との接続が断たれた状態で新曲を聴き続ける事になる。この状態での聴取経験は、ツリー型システムの”葉”だけが増え、それを支える枝は細いまま本数も増えず、という状態を生じさせる。

 ある特定の音楽ジャンルだけを大量に聴きたがる音楽ファンは、情報ブロッキングを生じさせてしまってるのかも知れない。また、カバー曲を受け付けられない人、つまり同一曲の別バージョンを嫌う人というのがたまにいるのだけど、このタイプの人も情報ブロッキングを起こしてるのかも知れない。
 葉から幹への情報経路が断たれた状態で個々別の曲に対する聴取経験を重ねても、ツリー末端の”葉”が無闇に増えるだけで枝や幹は太くならず、しかし脳みそへの負担は、葉の枚数に比例して増大する。それは不快な事ではなかろうか?そこに更に、既知の曲と良く似た葉=カバー曲が余分に付け加わるのは、どのような気分であろうか?
 ツリー型システムが正常に機能してるなら、良く似た複数の葉は1本の小枝にまとめられる。つまり、一つの情報単位として抽象化されるので、バージョン違いが増える事は脳の負担増にはならない。この、複数のカバー曲を一つのものへと抽象し、そののち再び、その抽象物からの照射によってバージョン違いのそれぞれが認識し直されるという循環プロセスは、曲概念を拡大させる方向に作用する。従ってこれは、音楽を聴く上での大きな楽しみである。しかし、情報ブロッキングを起こしてしまった人、つまりツリー型システムの経路に不具合がある人にとってのカバー曲は、不愉快な存在でしかない。

(「良く似た葉を一つの枝にまとめる能力」は、「類型」とか「ジャンル」とかを成立させている形式性を認識するための能力であり、パターン認識のための能力でもある。つまり、音楽をするのに必要な、最も基礎的な能力の一つである。「楽曲とは様々な音を様々に組み合わせたもの」であるが、作曲技法面での実際は「様々なパターン(類型)を様々に組合せ、あるいは組み違えたもの」であるから、パターン認識が出来ないという事は、楽曲というものの成り立ちからして認識できない、という事である)

 先述した、音楽の記憶力が異常なほど優れてる人(一回聴いただけの曲をすぐにピアノで云々)は、たしかに常人離れした記憶力を持ってるのだが、このタイプの人が作曲家や演奏家として何か優れた実績を残してるのかというと、少なくとも私は、その実例を知らない(モーツァルトやメンデルスゾーンには似たような逸話があるけど、なにぶん大昔の話しで確かな物証も残ってない。そのテの伝説はガセと見なすべきであろう)。ともかく記憶力が優れてるだけでは、優れた音楽家にはなれないのだ。その理由をツリー型システムの在り方に求めるならば、
1.幹と葉が連結されてない。その方が丸暗記には有利(かも知れないが)、曲概念は育たない。
2.あるいは、幹と葉は連結されてるのだが、幹から外部への還流経路が無いか、その還流に形を与えるための技術がない。
3.あるいはそもそも、幹=自分独自の音楽概念を外部へ表出させる事を欲してない。還流させたいという欲が無い。

 「一回聴いただけでピアノで」云々の件は、常人離れをした記憶力を持っている知的障害者についての特殊事例だけど、そうではない音楽ファンでも、とくに自分で演奏するタイプの音楽ファンなのに、幹の内容を外部に還流させたいという欲が無い、つまり「自分独自の音楽概念を外部へ表出させる事を欲しない」、つまり自分で作曲をしようと思わない人はいるもので、これもやはりツリー型システムのあり方に何らかの不具合があると考えるべきではなかろうか。出来る出来ないではなく、やってみようとさえしないのは、例えば誰かから話しかけられても「はい/いいえ」と「オウム返し」でしか答えないに等しい状態で、通常言語でそういう受け答えしか出来ないなら自閉症等と診断されるであろう状態なのだけど、なぜか音楽では、これが問題視される事はない。

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 ある年齢以上になると記憶が飽和状態になるからか、あるいは情報処理能力が(というか脳みそが)衰えるからなのか、人は、新たな短期記憶を形成しなければならない状況を避けるようになる。短期記憶が形成されなければ、長期記憶も更新されない。結果的に、曲概念=音楽受容のための認知システムは硬直化する。つまり老化によっても、音楽受容のための知性は低下する。従って老人は、懐メロばかりを聴くようになる。
 「年寄りってのはそういうもの」と言ってしまえばそれまでなのだけど、しかしそうなる原因は単純ではないのかも知れない。つまり、神経系が加齢により劣化するから短期記憶が形成されにくくなるのか、それとも、情報処理のための内部システムが変化を拒むようになるため、神経系の劣化を加速させてしまうのか。ここには「鶏と卵」の関係と似た事情があるのではないか?内部の硬直化と外部の劣化、この相互作用がループ化すると、これの進行を食い止めるのは不可能になる。

 それはそれとして、「老化」に関連して、先述した「擬似感動」の一つであるセンチメンタリズムについても書き足しておきたい。しかし、センチメンタリズム、あるいは「お涙頂戴もの」、あるいは「おセンチ」と呼び慣わされてる諸々について詳しく考えるのは難しい。少なくとも私にとっては難しい。今のところ、はっきりこうだと言える事はないのだけど、

・老人は短期記憶の形成を避けるようになり、そのため長期記憶が硬直化する(のではなかろうか)という事と、
・老いると涙もろくなる。

という2つの事を関連させると、センチメンタリズムとは何かが多少は分かるかも知れない(ような気がする)ので、それについてのメモ書きを箇条書きしておきます。

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まず、「おセンチ」とは何かについて、とくに根拠なく、多分こうだろうと思う事を書いてみると;
・「おセンチ」とは自己愛、自己憐憫、自己満悦の表れである。
・「おセンチ」とは、ストーリー・コンテンツの登場人物への自己投影という、一旦迂回した経路を経て、自己愛、自己憐憫、自己満悦が実現された状態を示す語である。
・あるいは、そのような状態を引き起こす事を企図する作品ジャンルあるいは作劇手法等々である。
・感動とは自己同一性が刷新された事の表れである。それに対し「おセンチ」で実現されるのは、自己同一性の再強化、より強固な固定化である。

そこで次に、自己満悦について考えてみる;
・自己満悦とは、自己同一性の更新を欲しない、あるいはそれを拒絶する心的状態である。
・短期記憶が形成されると長期記憶が更新される可能性が生じ、自己同一性が動揺する。なので自己満悦者は、短期記憶が形成されるのを好まない。
・短期記憶が形成されるような経験をしても、それは長期記憶化されない。脳みその表面をかすめていくだけ。
・自己満悦に陥ると自己同一性が損なわれなくなる。ざっくり言い換えると、心が傷つかなくなる。そのため多幸感が生じる
・この多幸感は当人の外部に漏れだし他者に感知される。それ故、自己「満悦」してると称される。しかしその実態は「無自覚な孤独」である。

曲概念=情報処理のためのツリー型システムは、ほぼそのまま自己満悦のための仮想モデルとして利用できる(かも)。システムの中核と末端との間に発生するブロッキング、それが音楽というローカルな問題ではなく全人格的な問題として起きた時、それは自己満悦という現れ方をする。

いや、情報ブロッキングが全人格的に起こったら、それは自閉症かも。しかし自己満悦=無自覚な孤独であるなら、それは自閉症的なのだ。健常者と同様の生活を送ってるが、どこかおかしい、という人はいるもので、自己満悦も。
ただ、「どこもおかしくない人」というのも実際にはいなさそうに思われる。

曲概念とは、音楽という局面での、その人の自己同一性である。
自己満悦してる者は自己同一性が硬直化してる。という事は、音楽ファンの人が自己満悦に陥ると、その人の曲概念は硬直化してしまい、音楽受容のためのツリー型システムも上手く機能しなくなるのではないか?

自己満悦してる者は自己同一性の更新を求めないから、従って文芸作品に触れる事も求めない(あるいは、ただの暇つぶしとしてしか利用しない)。たまに見ても理解できない。理解できないのは知力の問題もあるが、自己同一性の更新を拒む自己満悦の心が、作品を理解する事を拒むからでもある。そして、自分が得たい結論だけを引き出すよう、作品内容を曲解する。

音楽で情報ブロッキングが起きると、例えば、カバー曲がNGになる。では、カバー曲がNGの人は自己満悦的なのだろうか?
カバー曲がNGな人は、それを誇ってる場合がある。自己満悦的である。

情報ブロッキングを10代で起こしてしまう人がいるのと同じく、10代で自己満悦に至ってしまう人もいる。中学くらいになると、一学年に最低でも一人くらいは「鼻持ちならない自己満悦野郎」がいたのではないか?

情報ブロッキングを自力で解除できるか?という問いを自己満悦に置き換えてみると、それは極めて困難なように思われてくる。自らすすんで自己満悦を始めた、という人はいなさそうだが、他人から自己満悦するように強制された、という人もいないであろう。となると、それを望んだのではないにしても、自己満悦へ至る扉を開いたのは、その人自身なのだ。しかし一旦そこに入ってしまうと、自力では抜け出せなくなってしまう。

何かから逃れようとして、焦って、よく考えもせずクローゼットに逃げ込んだ。そしたら外から鍵が掛かってしまった。というような状態。
その後、この状態から脱したいと考え直しても、他人から見ると多幸感を漂わせた高慢ちき野郎だから、誰も助けてくれない。非常に恐ろしい状態です。

運良く「雷に撃たれたかのような」強烈な啓示的ショックを受けるくらいの事があれば、自己満悦から抜け出せるかも知れない。しかしそれも半端だと、自己満悦を内在させたまま「悟りを開いた」系の人になる。そのため自己満悦してる者の対人態度は、
1.(普通の自己満悦者は)独善的高慢
2.(半端な悟りを開いた場合は)無制限な程の自己卑下とか譲歩。全てを受け容れるかのような大らかさ
という、外見的には真逆の二態のいずれかとなる。とはいえ、半端な悟りを開いて「相手の全てを受け容れる」等と言いつつも、自己は固く閉ざされ硬直したままである。そして相手の言葉=短期記憶が長期記憶化されないのは以前と同様で、そのような人物からは偽善臭が、隠しようもなく漂ってくる。それは「悟り」を開く前の高慢さと、結局は同じものなのだ。

私がこういう事を書くのは、自己満悦者に自分を改めて欲しいからではない。基本、自己満悦者には何を言っても無駄である。どのような働きかけも、はね除けるか、自分に好都合なように曲解するだけ。だからこのメモ書きは、まだ自己満悦にはなってないけど、なっちゃうかも知れない人への注意喚起です。
私自身が、自己満悦に陥りやすい傾向の人間なような気がするのでもある。元々の性格もあるし、老化も始まってるから、ちょっと心配である。

そして「おセンチ」の問題に戻る。
老人は、本人の意思とは関わりなく(神経系が衰え)自己同一性を更新できなくなるため、自己満悦の傾向が強まる。そして、自己満悦したい心を充たしてくれる「おセンチ・コンテンツ」を求めるようになる、のではなかろうか?
「おセンチ」とは、自己満悦を充たすためのものである、という仮定が正しく、人は老化すると自己満悦を求める傾向が強まる、という仮定も正しければ、「年を取ると涙もろくなる」という通説に対する説明は、一応これで筋が通る。

「老いる」とは、鏡に写った自分の姿が日増しに崩れていき、自分が自分でなくなっていくのを目の当たりにする過程である。自己同一性を更新するどころの話しではなく、自分とはこうこうこういう者だったはずの状態を保つのもやっとなのである。そして、やがて全ては無駄な足掻きとなり、自己憐憫に涙する。

老化すると自己同一性の更新を行えなくなるため、音楽とかテレビドラマとかの外界からの刺激を、自己同一性の更新ではなく、これを再確認し強化・固定化するためのキッカケとしてしか利用できなくなる。何を見ても自己愛、自己憐憫、自己満悦しか引き出せなくなる。

となると「おセンチ」は、コンテンツの作り手側がそれを用意するのか、それとも、受け取る側の受け取り方によって「おセンチ化」されるのだろうか?という疑問が生じる。

「おセンチな場面」の作り方は定型化し、手法的に確立されている。古い例だと大衆演劇の「母もの」とか、「水戸黄門」の、たいていラスト5〜10分前くらいのところに挿入される「お涙頂戴シーン」とか。

しかし、ある作品が「おセンチ」になる/ならないは、受け手側の状態に左右される場合もある。
つまり、若い人は水戸黄門のラス前シーン的なものを見ても、「これで泣くのはバカかジジババくらいのもの」と思うのだが、その同じ人が年老いてから同じような作品を見るとメソメソ泣いてしまう、というのは実際にある事だ。
そう考えると、「おセンチ」は受け手側の状態が作り出すものなのでもある、と考えられる。実際、中高年者によるブログでは「子供や犬猫が出てきただけで泣いてしまった」(そのコンテンツは泣かせる意図のものではないのに)というような報告例が散見される。
もともと自己満悦の傾向がある人、若い頃からの自己満悦者が老化すると、人並み以上の「おセンチ体質」になるのかも。

「老いると涙もろくなる」のと似たようなのに「女は涙もろい」というのがある。これはどう説明されるのか?

自己満悦とは、自己が何かに閉じ込められ出口を見失った状態である(のだとして)、そういう人は「おセンチ」を求める傾向がある(のだとすると)、それを読み換えると、
「出口のない人、閉じ込められた人は”おセンチ”を求める。」
となる。閉じ込められた人とは;
かつての女性は家制の枠に閉じ込められ、社会参加を制限され、自分で自分の生き方を決めるのを禁じられていた。つまり「閉じ込められた存在」だった(今でも多かれ少なかれそうかもだけど)。だから「おセンチ」を求める傾向があった、という説明で一応筋は通るかな。
ただ、女性の場合は「自己満悦を充たしたいため」というより、「自己憐憫のための機会として」おセンチを求める事の方が多いような気がする。では、自己憐憫とは何か?

自己憐憫が何かは、私にはよく分からない。ただ、自己同一性を更新する/しない問題とは無関係なような気がする。そして自己憐憫を行うには、自己を客観する(外側から見る)必要があるように思われる。一般的に、女性は客観性が低いと言われる。ジェンダー・ロールがそういう傾向を生じさせる(のだとしても)、「私とは何か?」という問いを発する場合は必ず多かれ少なかれ、人は自己を客化する(自己が客化されてる故、私とは何かという問いが生じる)。社会性を制限された女性にとっては「おセンチ」が、そのための数少ない機会の一つだったのかも知れない。

なお、老人は「先がない」存在でもある(人生の行き止まり先が見えている)。言い換えると「出口がない」。この点からも「おセンチ」を求める傾向が生じるのかも。

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もう一度、音ファイルを貼っておきます。




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 3曲目は失敗作みたいなもので……なんて事を言い出すと私の自作曲の全ては失敗作みたいなものではないかという事になってどーこーだけどそれは置いといて、今回、トーナリティの扱いに関して試みておきたい事が一つあった(ドリアン・マイナーで3度間隔の転調)。しかしそれを用いる曲を書けなかった。書けなかったけど、そういうアイディアがあった事の音メモは残しておきたい。3曲目は、そのためのものです。

 この曲のリード・パートの収音マイクはOktava MK-319YAMAHA SG-1000でGiant Stepsを録った作例ではパーカッションの収音にこのマイクを用い、その時はこれの音を「ダーク」であると評しましたが、今回の印象は「冷静な音」。あるいは「太くて冷たい音」とでも言いますか。
 YAMAHA AE-2000の録音もオクタバで、概ね同じ印象。ちょっと聴いただけでは分かりにくいのだけど、このマイクには曲全体の印象を大きく左右してしまうくらいの強い個性があるかも知れない。明るい(というか陽気な)音のマイクと組み合わせれば、オクタバの特徴が更に活かせるのかも知れません。まあ私の手持ちの中に、陽気な音のマイクは無さそうなのですが。

 Focusriteというプリアンプは、どちらかというと派手で、線は細めの音。それとオクタバを組合せる事で、ちょっと独特な効果が生じてるのかも知れません。

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 説明する順番が逆になってしまいましたが、3曲ある内の1曲目。これの収音はリード/バッキングの両方を、同じマイク、同じセッティングを用いてます。ギター2本を用いた曲ですが、主役と伴奏の役割分担を明瞭に切り分けるようなミックスではなく、むしろ二つが混ざって一つになるような、2本で1本、2人で1人。つまりいわゆる、
1+1=1
な効果が生じてくれたら良いなという考えでミックスしてます。だったらモノラルにすれば良さそうなものですが、2台とも同じ楽器、しかも柔らかい音のコンパウンド弦を柔らかい音のマイク(MXL R144)で録ったせいか、モノ・ミックスにするとメロディ・ラインが埋没してしまう。なので、2パートを「付かず離れず」的な位置関係にしてみました。

 なお、この曲はテンポを大幅に揺らしてます。クラシックの、ピアノ伴奏で歌う声楽独唱でのテンポの揺らし方に近い。テンポが揺れて、それでアンサンブル(奏者2人のタイミング)がバラけたら、それはただのバラバラの演奏ですが、アンサンブルが良好なら、テンポの揺れ、間合いの伸縮は大幅な程むしろ、2人で1人、1+1=1の感じは強まります。

posted by ushigomepan at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | MY楽器 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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