2014年04月18日

Martinのコンパウンド弦/M130をYAMAHA LL-6Jに張った音

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 以前、ヤマハの古いアコギにコンパウンド弦を張った音を録りましたけど(2010年、YAMAHA FG-130)、その頃、私の所有機LL-6Jにも同じ弦を張ってました。その時の音の記録です。伴奏のコード刻みをしてるだけですが。

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■ギターはYAMAHA LL-6J
■マンドリンは国島マンドリン
■収音マイクは全パートRCA BK-5B
■プリアンプも全てMindPrint AN/DI

■マイクの立て方は;

Vo.BK-5B付属の専用フードを装着。
額の高さくらいから下向きに鼻の頭を狙う。
距離は5〜50cm
Gtr下手側からサウンドホールを狙う
距離=20〜30cm
Mando.サウンドホール正面
イントロリード=30cm / バッキング=50cm

■リード・ボーカルにはDAW上でコンプを掛けてます。設定は以下の通り。
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今回の録音は口とマイクの距離がいろいろなのでレベルのバラツキが激しい。なのでコンプで整えてみました。サビのメロディーは一番音量が出る音域だから20cm。対して低音域は、声量不足を補うためフードに鼻の頭がくっつくくらい接近してます。
ハモリ・パートは50cm。リードと同じマイク、同じセッティングで、背後でちょっと歌ってる程度のバランスにしたかった。

■Gtr.はDAW上でEQしてます。設定は以下の通り。
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ギターに対するマイクの立て方を「下手側から」にしたのは、その方が低域を多めに拾うからだったのだけど、ミックスする段階になって低域が邪魔になってしまった。

■全パート、DAW上でリバーブを掛けてます。ギターとマンドリンに対する設定は以下の通り。
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■Vo.に対する設定は以下の通り。
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■mp3書き出し前のレベル上げに用いたのはPSP Vintage Warmer。設定は以下の通り。
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■録音期間;
ギターとマンドリン;2012年10月9日
ボーカル;2014年3月24〜27日

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今回のお題はWoody Guthrie "Broen Eyes"でした。Smithsonian Folkways "Woody Guthrie Sing Folk Songs"というアルバムの収録曲。

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 ウディ・ガスリーの代表曲はプロテスト・ソングの元祖みたいな扱いの"Do Re Mi"とか"This Land Is Your Land"とかなのかもだけど、↑のアルバムにその2曲は入ってない。その代わりレッドベリー/Leadbellyらと共演してるゴスペルっぽい曲や、古い伝承歌のカバーとかが数曲入ってて、私はそういうのが好きで(いやもちろんW.ガスリーの作った曲も好きですけど)、今回取り上げた"Broen Eyes"も古いラブ・ソングです。あるいはトーチ・ソングと呼ばれる類の歌かな。マンドリンを弾いてるのはシスコ・ヒューストン/Cisco Houston。

なお、上記に貼ったYou Tubeのリンク先には現在、リバーブが付け足された版もUPされてるようですけど、ドライな方がオリジナルです。
W.ガスリーについての概要は下記リンク先を参照して下さい。
ウディ・ガスリー wiki

 私はこのW.ガスリーのアルバムを1990年頃に入手。以来ずっと愛聴し続けてるのですけど、それにしては今回の録音の出来はヒドい。完コピに近いものを目指してたのに、ぜんぜん別物になってしまった。愛聴盤とかいうて、実はまるで聴けてちゃなかったという事になりますかね。

 ギターとマンドリンを録ったのは2012年10月。歌の録音を開始したのが2014年の1月頃で、完成したのは2014年3月。えらく間隔が開いてます。伴奏を完成させ、さて歌を入れようという段になってから、

・ギター(洋楽器)の伴奏で、
・英語の歌詞で、
・ハモリのパートがある。

というのを録るのは自分にとって(初)だから慎重になるというか、色々準備も必要だとか、というより正直あまり自信がないので尻込みしてた。そうこうするうち(これは別の記事でも書いた事だけど)「唱法改造」を始めてしまい、2013年の前半は歌の録音を(三味線音楽も含め)全く行わなかった。同年後半は唱法改造の成果を長唄で試してみる事に費やした。2013年の暮れ頃からは禁煙チャレンジを始め、わりと重めの鬱と無気力状態に陥った(約2ヶ月ほど)、等々の事情が重なって、完成までに一年以上かかってしまいました。

 ともかく、歌の録音作業は2014年の1月中旬頃から始め、3月末の4日間で録った分をOKテイクとしました。というても1月から3月にかけて毎日せっせと歌ってたのではなく、とくに最初の頃は週一かそれ以下のペース。
 まず初めにちょっと試し録り。そのあまりの出来の悪さに嫌気して数日間放置。その後気を取り直して.....の繰り返し。禁煙鬱だったのも影響してますし。

 タバコは、2014年4月現在まだ完全に止めれてはいないのだけど、それでも一日に吸う本数はかなり減らせた。その結果、喉の状態も大変化しました。以前は常に軽い扁桃炎や鼻炎を患ってるようだったのが、その喉の痛み、腫れぼったさ、鼻づまりが弱まり、歌うのがとても楽になりました。それはもちろん良い事なのだけど、変化の度合が大きすぎて、喉操作の力加減と音程との対応関係が以前と違ってきてしまった。
 また、英語を発音するためには日本語にはない口の形を一部用いるけど、それも音程を不安定にする要素なので、その口の形に対応した音程の取り方を新たに覚える必要もあった。
 さらに、唱法改造--クルーナー型へ切り換える試みも継続中で、それも喉の状態が良くなったためやり易くなってるのだけど、急に変化しすぎで戸惑った。

 等々の事柄が合わさった結果、以前の自分の唱法が崩壊して初心者状態に戻ってしまったかのような状態になりかけたです。まあ私はもともと歌うための技術を持ってたのでもなく、「慣れ」と「クセ」だけでテキトーにナニしてただけだから、そんな経験値がゼロ・リセットされるのはべつにかまわない。だけど、やはりちょっと不安になるというか、進むべき方向を見失いかけたというか、途方に暮れた初心者の典型=いったい何が問題なのかすら分からない的な状態を久しぶりに経験したというか、ともかくいろいろ面倒だったです。今回録音した私の声の印象は以前のとたいして違ってないかもですが、歌う側の体感はまるで別物なのですよ。

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 以上は私の喉の状態、それがとくに禁煙で変化してどうこうという話しでしたが、そんな事より、今回の作例の主要な課題は「英語」。とりあえずもう一度、音ファイルを貼って歌詞も載せておきます。

BROWN EYES

Those Brown eyes I love so well
Those Brown eyes that I long to see
How I long for those brown eyes
Strangers they have grown to be.

Just a year ago today
When my brown eyes went away
Up in the heaven I long to be
Where a brown eyed angel waits for me.

(Chorus)

Last night I passed her on the street
I bowed my head 'cause I could not speak
Another man was at her side
Soon, I thought, she'd be his bride.

(Chorus)

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 以上、たったこれだけの短い歌詞だけど、私は大難儀いたしました。英語の歌を歌う事に関しては完全な初心者だから色々うまく行かなくて当たり前だけど、そもそも私は英語の日常会話や読み書きも出来ないのに英語の歌を歌おうとしてる。これは立場を置き換えて考えてみると、例えば;

日本語の会話や読み書きの出来ない、しかも日本在住ではない人が、筆と墨や硯を日本から取り寄せ、見よう見まねで「書」の作品を仕上げようとしてる。

のと同じような事ではなかろうか?しかも指導者なしの独学で。そういうのは出来る出来ないの以前に、なぜそんな事をしたがるのか?その動機からして謎な奇行のようでさえあるけど、ともかくそんなような事なら私が英語の歌詞を上手く歌えるわけがないのも当然であって、今回のは超初心者の第一作としてはまあこんなもんかなあとも思う。ただ、「どーせ出来やしないから」でやりかけみたいのをUPするのは意味がない(そんな事をしても自己学習のためのステップは一つも前に進まない)。だから現状でも出来るだけの事をして、もうこれ以上は良くしようがないと思える(諦める)ところまでは作業すべきで、それに要した期間が今回は約三ヶ月だったという事です。どのみち英語はすぐに上手くはなれないし、これは今後10年くらい掛けて少しずつマシにしてけたらいいなくらいに思ってます。

*)なお、上掲の歌詞はCD "Woody Guthrie Sing Folk Songs"に付いてる歌詞カードの引き写しですけど、W.ガスリーが歌ってるのとは一部相違があります。
まず、3回あるサビのうち最初(頭サビ)の1行目だけ、他の2回と違ってる。私は、ここは3回とも同じ形で歌いました。
あとは2nd verseの1〜2行目に歌詞カード通りなのか判別しがたい個所が2つあって、これはW.ガスリーの歌い方に似せたつもりです。"Last night I passed (her) on the street"で、herが有るのと無いのとでは意味もけっこう違ってしまうけど、どらでもかまわないと思えなくもない。あるいは歌詞カードが誤植なのかも知れない。

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 さてところで、日本人が話す英語といえば日本独特の、いわゆるカタカナ英語。これが英語の歌を歌う際にいろいろ問題(障害)になりがちなわけですけど、これに対しては、
1.カタカナ英語は絶対にダメである。
2.べつにカタカナ英語でもかまわない。
3.いやむしろカタカナ英語を積極的に用いるべきである。
等々いろいろに考えられるけど、私自身は、当分はカタカナ英語ではない方の発音で歌う練習をするつもり。その理由をきちんとした文章にまとめると長文になりすぎるので今回は要点だけを箇条書き;

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まず、歌ではなく日常会話での英語について言うと、
自分(日本人)が日本にいて外国人と(観光で、あるいは仕事で来日した外国人と)英語で話す場合なら、カタカナ英語でかまわない。
英会話教室の宣伝だとそんなのはダメらしいけど、「自分が日本にいて」という範囲内でなら、たいていはカタカナ英語でOKですよ。
日本人が外国に出かけてく場合は、カタカナ英語は止しとくべきですが。

英語は地球の共通語みたいなものです。
という事はその分、様々な訛りや、文法がめちゃめちゃだったり幼児語的だったりの壊れた英語が世界各地で話されてるという事で、英語を母語とする人(a native speaker of English、以下略してnsE)は、そういう壊れた英語をわりと聞き慣れてる。
少なくとも非nsEと接する機会の多いnsEなら慣れている。また、非nsE圏に旅行したり移住したりするnsEは、壊れた英語を受け容れる心の準備が予め出来ている。だから、日本で外人と話す場合なら、カタカナ英語でもOK。

だから、歌う時の英語もカタカナ英語でべつにかまわないのだ、という事にはならない。歌と日常会話は別のものなので、歌の中での英語はカタカナ式ではダメである。

その理由;

現在現役の長唄など三味線音楽の演奏家のほとんどは、現代日本語の発音で江戸唄を唄う。私にとって、それは極めて不快である。
伝統邦楽の愛好家は、あまりそれを気にしないのかも知れない。というか、こういった点に関してはある程度どんかんでないと、現行の伝統邦楽なんて聴いてられない。鼻の穴が無ければ肥溜めのフタに腰かけて弁当が使える道理で、歌舞伎座とか国立劇場とかに集ってる人達ってのは、なんかそういう仁なのかも。
べつに、例えば七世伊十郎の唄の発音が江戸時代そのままという事でははない。そうではなくて、唄には唄の中での、唄ならではの、唄うにふさわしい言葉の扱い方というものがあって、それが崩れた唄(現行長唄)は醜い。
そして英語の歌でも、この事情は同じだろうと思う。英語の歌の大半(ほぼ全て)は、nsEが自分ら同士で歌い聴かせ合うために作った曲である。その歌の言葉を、非nsEの訛りで歌うのは醜く、失敬な事である。
いや、そう一概には言いきれない面もあるのだけど少なくとも、現代語化した長唄を不快に思う私が、英語の歌を歌う時はカタカナ英語でも気にしない、というのは許されないだろう。

歌だけでなく芸能全般での言葉の発音について考えてみると、例えばTVドラマ等で、関西出身ではない役者が関西人の役を演じる場合、あるいは東北出身ではない役者が東北人の等々、そういう場合の擬似方言もたいていは不快なものである。これはけっこう多くの人が同感してくれると思う。

だからおそらく、発音の訛りに対する人間の感覚は意外なほど鋭く、なおかつ狭量で排他的、差別的なものなのだ。いや、非nsEと接する機会の多いnsEはその点おおらかなのかも。それで多文化主義がどーこーな昨今だけど、私は島国育ちの古い世代の日本人だから、多文化主義はけっこうなものかも知れませんが根本的には容認しがたい、と感じてしまう。

ただ、もしも例えば20世紀初頭に構想されたいわゆる大東亜共栄圏的なものがWW2で崩壊せず現在まで継続してたなら、日本語が、少なくともユーラシア大陸の東半分から太平洋の西半分の範囲のリンガ・フランカとなり、その結果、様々な外国人訛りの日本語が話される、そういう世界が出現してたのかも知れない。もしそうだったなら、私たち日本人の「ことば」に対する感覚(というより感情)は、今とはかなり異なってたのかも知れない。

ちなみに私は、いわゆる「正しい日本語」を守るべきとは考えない。むしろ「ことば(国語)」とは、壊される事で(あるいは改変され続ける事で)本来の機能と活力を保つのだ。とくに日本語のいわゆる「標準語」は人工的で官製的な言語なので、常に破壊し機能拡張し続けられるべきものである。

しかしその破壊行為を行うのが日本人(あるいは、a native speaker of Japanese、以下略してnsJ)なのか、それとも非nsJなのか?この違いは区別されるべきである。

nsJの、nsJによる、nsJの言語をnsJ自身が(改)する限りにおいて、その破壊行為は「日本語の歴史」に組み込まれる(組み込まれざるをえない)故、有意義で正当なものである。
非nsJによる日本語の破壊は、単なる破壊、それ以上のものではない。

抗議団体のクレームを受け容れ禁止ワードの項目をやたらと増やした電波メディアの対応も、非nsJによる日本語の破壊とある意味同等。

ついでに言うと「正しい日本語」論とか「ら」抜き言葉禁止とかを推す人の日本語観は、非nsJ的である。
受験勉強にしか役立たない知識(いわゆる受験文法)や、助詞概念を用いる日本語文法論(もう半世紀以上も前の学説)を根拠に、いわゆる「正しい日本語」を主張する類の人は、まあたぶん日本にいながら日本人としての言語生活を経験してないのだろうけど、むしろ逆に、そういう似非日本人みたいな人ほど「正しい日本語」へのこだわりが強いのかも知れない。自己の基盤を日本人個々人同士との具体的な接触よりも、上位概念的な何かしら(例えば、単一民族的に統一性のある日本という国家全体、とか)の方に求める人。
しかし国家とは観念であり、それと同じく「正しい日本語」というのも観念である。つまり、今、私の目の前に机やパソコンが「ある」のと同じようなあり方で国家が「ある」のではない。「正しい日本語」についても同様。そんなのはあるようでないようなもの、なのである。

一方、日本語の乱れ問題に関しては、言葉がどれほど崩れようとも「意味が通じさえすればOK」だから容認するという人もいる。しかしそれも半面的な考え方である。
なぜなら、言葉とは意志疎通のための道具、というだけのものではなく、意志疎通したい相手と、したくない相手とを分け隔てるための「壁」、意志疎通したくない相手を切り捨てる「刃物」としても利用されるものだからである。

例えば、特定の社会集団の中でしか用いられない特殊用語(符丁、隠語)とか、
特殊な趣味の世界の愛好家同士でしか通じない専門用語とか、
ギャル語とか。
こういったのは、小さな社会集団が「よそもの」を排除するために用いる言葉である。わざと「自分ら」以外には通じない言葉を作り用いるのも、言葉が担う重要な機能の一つである。

言葉の持つこうした側面を「訛り」が嫌われる件と併せて考えると、言葉というものの根本性格には「差別のための道具」という一面が含まれてる、という事にもなろうかと思う。
日本という枠組みの中で、これを更に細分化するための道具が特定の小集団内部でしか通じない特殊用語。しかし日本全体としての日本語は、日本人とそれ以外とを区別するための道具である、という事。

話しが多少脱線したけど、以上、カタカナ英語で歌うのがNGな理由をまとめると;
日常会話と歌とを同列には扱えない。
そして、歌(あるいは芸能全般)での言葉は民族主義的、排外的、差別主義的なあり方をしてるから、「よそもの」である事を表す「訛り」は排除されるべきである。
従って、カタカナ英語で歌うのはNGである。

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しかし私は、カタカナ英語で歌うのもOKな可能性はあると考える。その理由;

「正しい日本語」など存在しないのと同様、「正しい英語」というのも存在しない。米国にも標準語みたいのは一応あるけど、こと歌(ポピュラーソング)での英語について言えば、「黒人訛り」の歌は米国の音楽界で常に一定の存在感を保ち続けてきたし、一個のスタイル(というか、標準的英語の世界とは別個の文化、というか人種、あるいは歴史的経緯、あるいは政治的課題、あるいはその他の何かしらを表す指標的なもの)として認知されてる。
その他に「リバプール訛り」の歌も、(ごく一時期だったかも知れないけど)けっこう大きな存在感があった。
英語には他にも米国南部訛り、ロンドン訛り、アイルランド訛り、オーストラリア訛り等々、nsEの英語にもかなりの幅があって、英語とは、様々な訛りが許容される、あるいは互いに反目しつつ併存してる、そういうものなのだ。
それに、フレンチポップスが流行ればフランス人の、スウェディッシュポップが流行ればスウェーデン人の等々、非nsEによる英語の歌が(一時的にせよ)ヒットチャートを占拠したりもする。
だから日本訛りの英語も、そういった外人訛りの一つのスタイルだと認知される可能性はある。だから、カタカナ英語で歌うのもOKなのだ。
いやむしろ、カタカナ英語の存在をnsEに認知させる機会を日本自身の手で閉ざしてしまわないためには、カタカナ英語を積極的に用いるべきなのだ。

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とはいえそれは理屈の上での話しにすぎず、やはり日本人のカタカナ英語が一個のスタイルと認知されるのは難しい。その理由は;

1.カタカナ英語の曲がある程度以上の数量で英米圏でのヒット曲にならなければならない。
2.非nsE訛りの英語が無数にある中でも、日本訛りの英語はとくにヘンテコである。

1.と2.は、それぞれがもう片方の、つまり1.が2.の、と同時に2.が1.の原因となってるかも知れない。つまり卵が先か鶏が先か式の関係なのかもだけど、本稿に関係があるのは2.。

日本訛りの英語は、他の非nsE訛りの英語とどう違うのか?まず、英語と日本語との違いについては、
・音韻論的
・文法的
・会話習慣的
以上の全ての点で、英語と日本語は異なる。というか異質すぎる。

ちなみに、主語や目的語を省略しても意味が通じてしまう日本語の特性は「会話習慣」から生じるもので、文法はあまり関係ない。
日本語は「構文を持たない(あるいは構文が不要の)言語」とも呼ばれるが、それもたぶん正しくない。
日本語は、構文あり、主語/目的語もありで作文したり会話するのも可能である。しかしその形は常用されない。

機械翻訳ソフトと相性が良い日本語文は、構文/主語/目的語を略さない形の方である。
私のWeb記事は外国人にもわりと読まれてて、彼らはその際、機械翻訳を利用してる。というのを私は知って、ならば誤訳を避けるため、なるたけ常に構文/主語/目的語ありの作文を心掛けるべきかなと考え、そういう書き方のを少し試してもみた。しかし常時構文/主語/目的語ありの日本語文は書くのに手間がかかるし文字数は無駄に増える、そのくせ読み返してみるとガリ勉バカの垂れ流し的な、かえってアタマ悪い感じの文章になってしまう。なので止しにしました。

ともかく、日本語は構文/主語/目的語が有りでも無しでもOKである。しかし書き手or話し手が、その有無を好き勝手に選べるのではない。構文/主語/目的語を略してはいけない場面はあるし、略すべき(略する方が好ましい)場面もある。その有無の適切なあり方を規定してるのは文法ではなく「会話習慣」的な何か、なのである。

ところで英語でも、対面会話なら主語抜き文で通意可能な場合は多い。目的語も「あれそれ式」の会話でいけてしまう。なぜなら、対面なら身振りや目線その他(言語外言語)を利用出来ますので。とはいえ不完全な英文は誤解を生じやすいので、日常会話で主語/目的語を略した英語を多用するのは好ましくない。
しかし「歌詞」でならどうであろうか?
日常会話と歌とは別物である。暗喩、多義性、曖昧表現に対する許容度は、日常会話よりも歌詞の方が高い。むしろ歌詞では、解釈の多様性を許す曖昧さは好感される。
だから、これは「訛り」とは別問題なのだけど、日本人が日本語のノリで作った英語の歌詞=英語本来の形からするとちょっとおかしい、そういう英語歌詞でも、それが一個のスタイルであるとnsEから認められる可能性はやはりあるのだ。

そして、これもまた机上論に過ぎないのも訛りの件と同様。

でもまあ日本国内の流行歌産業は縮小する一方だから、それでもこの分野で商売を続けたい人は今後、日本の歌を欧米で売る事を本気で考えなくてはいけない。カタカナ英語は、その際の障害なのであろうか?
欧米の側からすると、非nsEの歌う英語の歌の発音がどれほど上手でも、曲の中身が流行の後追いや二番煎じなら、そういったのは出稼ぎ労働者の猿まね芸でしかないから聴きたくもない。一方欧米人は、黒人訛りの歌は受け容れた。だから結局、訛りの有無よりも聴くべき中身があるかどうかの方が重要なのだ。まあ、米国黒人は非nsEではないんですけどね。
そして、黒人訛りの歌は白人社会に好意的に受け容れられた、のでは全然なくて、憎悪と暴力の数々に伴われながら、数十年かけてアメリカ社会の中に自らの居場所を力ずくで確保した、というのが半面の事実である。
異文化性を前面に出したら摩擦が生じる。日本訛りの英語でも同じである。しかし新しい市場を開拓するには「突破口を開く」的なナニが必要で、それはけっこう破壊的な行為で、しかし日本語訛りにも破壊力があるのなら、それは積極的に活用すべきなのかも知れない。でも破壊したら好感されないから聴いてもらえないのでは?
といった矛盾諸々を解決するのは私の課題ではないので、この件についてこれ以上書くべき事も無い。こっから先は話しを本題に戻して、「英語の歌を英語らしく歌うための心得」に関して私が重視してる、
・アクセント
・母音
この2点に付いてメモ書き。

アクセント;

日本訛りの英語がヘンテコな理由の一番の原因はこれだともされる。会話の区切り型、息継ぎの場所なども含め、文章に流れと「まとまり感」を与えるためのアクセント諸々が、日本訛りの英語はnsEのそれとはかなり異なってる、という説がある。

日本語にない子音や母音といった個々の要素をnsEそっくりに言えるようになっても、アタマの中身が日本語のままだと、アクセントや息継ぎの位置が英語としての自然な流れの、本来あるべき位置とは異なってしまうらしい。
個々の要素(部品)がちゃんとしてても、それらを組み合わせた全体像がおかしいのは「福笑いのヘッポコ」だから、そんな言葉を喋ってる人のアタマの中は空っぽか壊れてるかのどっちかだと見なされてもしょうがない。だからアクセント、息継ぎ、文としての流れ、全体像というのはとても重要である。

ただ、歌の中での言葉のアクセントや息継ぎの場所は、メロディーによって予め決められてる。だからメロディーの通りに歌えば概ね無問題である。のではなく、歌の中のアクセントさえ、日本人は日本語式に作り直してしまう事が多い。
この件は歌よりも楽器での「完コピ」の方が分かりやすいかもしれない。日本人による洋楽の完コピ(自称)は、アクセントやレングスが全然コピー出来てない場合が多い。楽器ではそれがバレ易いけど、歌には言葉という要素が加わるため、アクセントや区切り位置の不具合は分かりにくくなりがちかも知れない。

なお、洋楽でもTOP40HITSの類の曲はたいていグルーヴが浅いので、そういうのの楽器パートも、アクセント面での特徴は弱い事が多い。善男善女のためのお気楽な娯楽音楽の伴奏がのっぺりしてるのは日本もアメリカも同じ。
だから、自称音楽好き、自称ロッカー()、というても実際は大ヒット曲をざっと知ってる程度、という人がコピーをすれば、ビートルズでもMG'sでも何でも全て三波春夫のノリみたくなってしまうのはむしろ自然な事だけど、盆踊り化されたMG'sなどというアレをWebに晒して平気でいられるのもどうかと思う。ただまあそういうのも鼻の穴がなければ某所で弁当以下略
ただ、コピーだからといって必ずしも、コピー元と完全に同じにならなきゃいけないのではない。完コピしようとしてもどうしても、体質的に、同じには出来ない部分が残る。むしろ完コピとは、どうしても同じにならない要素は何なのかを知るために行うのだとも言える。

日本語にもアクセントはある。強弱、高低、長短の全てを少しずつ持ってる。しかし、全体的には(諸外国と比べれば)アクセントは弱めでのっぺりした言葉である。また、アクセントの位置が違うと意味が通じなくなってしまう、という事も少ない。主語抜き文と同じく、日本語のアクセントは状況に応じて使い分け可能なものだし、意味の違いより、世代や地域の違いを表す指標として用いられる事の方が多いかも。
だから日本人は、英語のアクセントの重要性を本当に理解するのは不可能なのかもしれない。だから日本人による洋楽コピーが全てなんちゃってレベルに留まるのも、体質的にしょうがない事かもしれない。体質に抗ってまで異国人に成りきろうとしても、例えばJリーグが発足した当初の似非ラテン人的躁状態(痛)を引き起こすばかりで、それってちょっとどうかと思う。日本語はのっぺりしてる。顔だってのっぺりしてる。私はそういう、日本人の人相と言葉の響きが好きである。英語を身に付けるため日本人的体質を捨てるなんて事は出来ない。

母音について;

nsEは「あいうえお」って言えないらしい(裸母音の連続)。日本人は言える。発音術の根本が違うのである。日本人は管楽器奏法で言うところの喉スタッカートみたいなやり方で、息の流れを細かく堰き止めながら話してる(らしい)。日本人は母音の連続を細かく区切って発音する事が出来る。日本訛りの英語がカタカナっぽくなる原因の一つはこれである。たぶん。

日本人は"I"(一人称単数)を「あいうえお」の「あい」と同じに発音しがちである。これがカタカナっぽいのは、母音の種類がnsEのとは違う云々より、「あ」と「い」が分離してるから、ではなかろうかという事です。

なお、「あいうえお」が言えるという日本人の特技が、日本語本来のもの、日本古来のものかどうかは不明。「かなの一覧」は「いろは」であった時期の方が圧倒的に長く、「あかさたな」の五十音表が普及した近代以降に「あいうえお」を区切る発音術が生じたのかも知れない。
喉で息を切る癖は、歌に関しては悪影響の方が多いであろう。喉を絞める癖を派生させやすいように思われる。そして「暗い」印象の声になる。
いや、それが日本の歌の特徴ならば、それはそういうものだと受け止めるべきかもだけど、先に述べた現行長唄が昔のとは違って云々とも併せ考えると、やはりこの喉の使い方が日本本来のものかどうかは疑わしい。

喉で息を切る癖は、アイドル・ヒーカップを生じさせやすいのかも(松田聖子のしゃっくり唱法)。
アイドル・ヒーカップは、1960年代末の伊東ゆかり辺りから徐々に現れ始め、70年代中期のキャンディーズではもう少し増え、そして1980年の松田聖子「青い珊瑚礁」に至って一つのスタイルとして(あるいは異物として)認知された。
金井克子の1973年のヒット曲「他人の関係」の言葉の発音は、七世芳村井伊十郎など「昭和の名人」世代の三味線音楽家の発音と同じ(なように私には聞こえる)。金井克子は1945年生まれ。
そして、キャンディーズの発音は現在の日本語と概ね同じになってる。伊藤蘭は1955年生まれ。ここら辺に日本語の世代交替の大きな分かれ目がある、と仮定して、それとアイドル・ヒーカップは「あいうえお」を区切って言える発音術と関係するのかもという仮説とを併せると、やはり「あいうえお」を区切る発音術は日本古来のものではないのかなと思われてくる。

なお、生年が1945年より以前の歌手の発音が全て古い日本語型なのではなくて、例えば長唄の自称人間国宝()宮田哲男氏(1934年生まれ)が唄うのは現代日本語型の、とても気色が悪い長唄である。
もっとも、この人の唄は本来木戸銭取ってはいけないレベルの素人芸だから、それの発音がどうかを問う意味もない。盆踊り化したMG'sとか、カラスでも絞め殺してるような歌声を披露するビートルズ研究とかも、それが素人の所為なら技量の低さは云々されるべきでない。宮田氏の唄も同じですね。人間国宝()が素人じゃいかんだろうと思われるかもですが、いわゆる伝統邦楽の演奏家は演奏会や音盤の売上で食ってるのでもなく、お稽古好きな素人への課金が収入の主力。いわゆる人間国宝というのは国から補助金を受け取ってる人の事。素人連の引率役を勤めるのが伝統邦楽のプロの主な仕事で、それの頂点に立つのが人間国宝()。いわば素人王(しろうとおう)。だから彼らの技量が素人並みなのは、むしろそうであるべき事(なのかも知れない)、人間国宝てのはべつに音楽の専門家じゃないんですよ。
いやもちろん、宮田氏の唄は素晴らしい、文字通り人間国宝だと思う人もいるのでしょう。彼の唄なんてお笑い種ですらないのだが、それが分からない人にとってなら伝統業界は素晴らしい世界。いわゆるあれです、鼻の穴がなければ以下略
一応お断り書きしときますが、現在現役の長唄さんの全てがダメなのではなく、例えば2012年か13年のテレビ番組で澤瀉屋の誰だったかが踊った時の地方は良かった(名前忘れた。歌舞伎座ではあまり見掛けない顔)。長唄界は、へたくそほど出世できるような仕組みになってるのかも。

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 以上で英語の発音に関するメモ書きは終了です。それで、書くべき順番が逆になってしまいましたけど、本稿のタイトルであるYAMAHA LL-6Jとコンパウンド弦との組合せ、これについても最後にちょこっと書いておきます。"Brown Eyes"の伴奏を録り終えた後、ブロンズ弦に張り替えて何曲か録音しました。

とりあえず張り替えた直後の試し録り
3フィンガー
コード・ストローク

 これらの録音と"Brown Eyes"の伴奏の音とを改めて聴き比べてみると、コンパウンド弦の音、けっこう良いのかもと思えてきた。というか私の場合は、フォークギターにキラキラした高音や豊かな低音を求めるのが間違いだったかなという反省がございます。とくにバンドにアコギを混ぜる場合。なので、もう一度LL-6Jにコンパウンド弦を張るのを試してみる予定。

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ボーカルへのマイクの立て方について;

 今回の歌の録音は、RCA BK-5Bにこれ専用のフードを付け、顔の上の方から口元を狙うようにマイクを立てました。この録り方が決まるまでにも一ヶ月以上を要したりもしたのです。自分の場合、マイクを顔の上側にセットするのはわりと定番なのだけど、英語は日本語と違うから別の場所も試してみようと。でもやはり、上からが良かったです。

 一方フードは、私は基本、ポップフィルター類は使わない方針なのだけど、英語は日本語よりもアクセントの強弱幅が広く破裂音も多いから、とくにリボン・マイクにポップフィルター類は必須、というのに気付いたのも録音作業を始めて一ヶ月以上経ってから。RCA BK-5Bに金属製ポップフィルターを組み合わせるのは以前にもやった事だけど、今回は初めて、専用フードを装着してみました。そしたら、音のモケ具合がボーカル用にちょうど良いですねこれ。見た目が不気味なのでちょっと敬遠してたのです。しかしさすが専用なだけの事はあるというか、今後はこれ必須。

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ハモリについて;

 自分の声質はハモらない方のだと思うけど、とりあえず音程さえ合ってれば一応は形になってくれる、というのを今回ので確認できました。ハモるのではく、メロディーを二重線にして強調するタイプの声質。

ハモらない声質(音質)とは、いわゆる抜けの良い音。
ハモりやすい声質(音質)とは、背景に溶け込んでしまえる音。

 古典オーケストラでの木管楽器群とホルンとの役割の違いみたいなものでしょうか。あと、マーチングバンドでのピッコロ。楽器単体の音量は小さく、周囲の音にかき消されてしまいそうなのに、それでも木管楽器の音はオケの中から抜け出てくる。ハモらない音質=周囲と一体化しにくい音質ならではの特徴ですね。

 室内楽の木管五重奏はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットに、ホルンを加える。ハーモニーを構成するためには、(ハモらない音質の)木管楽器群だけでは厳しい故、ホルンが加わる。

 だから音楽ではハモりやすい音とハモらない音の両方が必要で、宅録という一人遊びを円滑に進めるには一人で両方を使い分けられるのが望ましい。クルーナーはハモりやすい発声法かも、という点からも、クルーナー唱法を身に付けるのは自分にとって有意義なのかも。

 なお、今回のミックスは本当はモノラルにしたかったんだけど、そうすると音程の悪さが目立ちすぎるのでいつも通りステレオにしました。

posted by ushigomepan at 04:28| Comment(0) | TrackBack(0) | MY楽器 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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