2013年12月20日

マイク・テスト MXL R144と唄/三味線

2013年10月に購入したMXL R144で、長唄の三味線と唄を録ってみるテストです。前回、唄を録ったのは2012年1月だったから、約一年ぶり。この間ずっと唱法改造に取り組んでたので、それの成果(あるいは途中経過)をチェックするためのテストでもあります。

曲は「吾妻八景」からの抜粋。調子は四本。

2014年8月29日追記;

2014年6月にこの曲は録音し直したので、音声ファイルは削除しました。
新しい方のページはこちら
「おまけの作文」には残しておきたい内容が多いので、このページ自体は当分このままにしておきます。

遙かあなたのほととぎす
初音かけたか羽衣の
松は天女の戯れを
三保に譬えて駿河の名ある
台の余勢のいや高く
見下ろす岸の筏守

日を背負うたる阿弥陀笠
法のかたえの宮戸川
流れ渡りに色々の
花の錦の浅草や
御寺をよそに浮かれ男は
いづちへそれし矢大神
紋日にあたる辻占の

松葉簪二筋の
道の碑 露踏み分けて
含む矢立の隅田川

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■収音マイクは唄/三味線ともにMXL R144(赤丸の方)
■マイクプリはMindPrint AN/DI

■三味線へのマイクの立て方は;
やや下手側から胴の正面約50cm。床から約80cmの上方。

■歌へのマイクの立て方は;
顔と部屋の壁の距離1m。顔とマイクの距離50cm。高さは顔のほぼ正面。
ポップ・フィルター等は不使用。

■唄と三味線の両方にDAW上でリバーブを掛けてます。設定は唄、三味線ともに共通。

mic10.jpg

mic10b.jpg

設定を違えたリバーブを二重に掛けてます。
上段は初期反射主体で「音を厚くする」ためのもの。下段は残響を補って「空間を拡げる」ためのもの。
という意図で二種類を使い分け。"Size"と"Diffusion"を違える等も一応はしてるけど送り量はごくわずかなので、こういう事をした効果がどの程度あったかはイマイチ不明。

■録音期間;
2013年12月6〜8日

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MXL R144と三味線の組合せについて;

今回用いた三味線は犬皮、紫檀棹。それを樫撥で弾いてます。

 R144は入力に対する反応が遅く、アタックが丸くなります(ハイハットを録った作例)。三味線に対してはその特性が、概ね良好に作用してると思います。アタックに対して過敏すぎないので扱いやすく、
「ポンと置いて録れば、そこそこ三味線らしい音になる」
便利に使えるマイクだという印象です。

R144と唄の組合せについて;

 マイクと口との距離が50cmあるにしては音が近い印象です。50cmというのは概ね肘から指先までの長さで、Vo.録音としてはオフ位置の部類だと思うのだけど、低域の、とくに息を吐く風圧の拾い方がオン・マイクっぽく、それで音が近く感じられるのかも。
 それと、50cm離れてても顔の向き(上下)とか口の開き方の大小の違いが、けっこう忠実に描写されてます。私としては、そういう点はあまり忠実であって欲しくない。NGテイクが増えるばかりですので。

 R144は双指向性のマイクなので、「部屋の壁と口との距離を1m。その中央にマイク」という位置関係で設置してみました。マイク背面からの影響力を増やしてみようという意図です。「壁」というのは縦横半間くらいの木製のタンス。板材は厚めで、反射板として良好ではないかと考えそういう立て方にしてみたのだけど、これも「音が近い感じ」を作る要因になってしまったのかも。
 三味線への立て方は、奏者(私)が壁を背にして、マイク背面は部屋の中央側へ開いてる。その方が自然な〜圧迫感のない〜暑苦しくない音で録れるのかも知れません。

 以前の唄の録音時に用いてたプリ・アンプはFocusrite Twin Trakで、ほぼ常に内蔵コンプをONにしてました。今回のプリ・アンプはMindPrint AN/DIだからコンプ掛け録りはしておらず、音量のバラツキが大きいので聴きづらい。Auto Mixである程度は補正してますが。
 なお、低域が多めとか距離が近いとか感じるのは、MindPrintの特性も多少影響してるのかも知れません。

 以上をまとめると、三味線一本きりの伴奏のような「唄が裸になる」条件ではR144は用いたくない、というのが今のところの感想です。ロック系の厚いオケがバックなら良いかも知れません。

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唱法改造について;

 録音された自分の声を聴くのを嫌う人は多いと思います。私もそうです。ところが私の宅録趣味は「自分で聴いて楽しめるものを作る」のが目標の一つというか、それが出来の良し悪しを判断する基準の一つでもあるので、自分の声が混ざってる、という理由だけで楽しめなくなるのは困ります。
 自分が作った録音物を、録ったきりで二度と聴き返さないという人もいるかもですが、基本、録音物を(ライブ演奏のアラ探しチェック用とかではなく)、作品としてわざわざ作る場合、それは繰り返し聴かれるであろう事を前提に、作者は、何度も聴き返されるに値するものを作ろうと努める。
・録音物が作られる第一の目的は、記録と保存。
・そして(遠く離れた場所、あるいは遠い未来への)伝達。
それらが有効に用いられる場合、その録音物は何度も繰り返し聴き直される事になる。

 というような「作品として云々」とはまたべつに、私の宅録は前回の記事にも書いたように、自分のためのイメージ・トレーニング用ツールを作るためのものでもあるので、当然それらは繰り返し聴き直すべきものです。

 だから、自分の声が加わってる作例だけは不快だから聴かない、というのでは困るのですね。様々なジャンルやアレンジの作例を作る中で、いつもインストものばかりというわけにはいかない。という必要性からボーカルを入れるまでの事で、だから私は自分の歌に対して上手いとか良いとかは求めない。べつに下手でもかまわないんですよ。ギターだって下手ぴいなのをそのまま晒してるんだから。しかし歌は、上手い下手の以前に、自分の声を聴くのが不快である。だからせめて、それを不快ではないものにしたい。そのためにはどうしたらよいのか?不快さの原因は何なのか?

 録音された自分の声が自分にとってだけ不快な原因は、正確には分かりません。しかしこの不快感を和らげるための定番的な手法は存在します。ざっと思い付くだけでも、
・ダブル・トラックにする。
・リバーブを掛ける。
・コンプを強く掛ける。あるいは歪ませる等の電気加工を施す。
・頭声にする(西欧クラシック式の発声法)。
・作り声、声音(こわね)を用いる。
等々。これらは全て、もともとの声の個性を薄める(あるいは別のものに作り替える)事を意図してます。自分の声が「まるで自分ではないような声」になってくれれば、あるいは自分の声の特徴が薄まれば、自分の声を聴く不快さも薄まる。この事から「録音された自分の声が不快な原因」は、ただ単にそれが自分の声だから、というだけの理由であるとの結論が帰納的に導き出されもするのだけど、これではまだ「なぜ自分の声が不快なのか」という問いへの答にはなっておらず、結局この疑問はループし続けるけど、経験則に基づく対処法だけは一応確立されてるわけです。
(最後の二つ- -頭声と声音- -は、録音テクノロジーが登場するより以前から用いられてた発声術なので、録音された自分の声が云々とは少し性質の違うものですが。)

 ダブル・トラックとリバーブに声の個性を薄める効果がある、その原理は概ね同じと思うのですが、
・ダブル・トラックの方が効果は強い。そのかわり(多重録音でしか実現出来ない、という点で)不自然。
・リバーブの「声の個性を薄める効果」は弱いけど、これは自然界に存する現象なので(掛けすぎなければ)不自然ではない。
という違いがあって、状況に応じてそれぞれ使い分けられる。
 リバーブを掛けると「良い声になる」的な通念がありますけど、悪い声に残響を足しても良い声になるわけがないのであって、実際は「自分の声の特徴を消せる(ような気がする)」から好まれるのだと思われます。長い残響音には、それ自体に快感を引き起こす作用もありますし。
 もしも「悪い声」(というものが本当に存在するのだとしたら)、それにリバーブを掛けるのは「悪さ」を増量するばかりで事態は更に悪化するように思われるのだけど、それでも歌った当人は自分の声が丸出しになるよりかはリバーブてんこ盛りの方がまだマシと考え、「毒を以て毒を制す」的無謀な作戦の方を選んでしまう。もっとも遊芸の世界では、わざとヘボを打ったり露悪趣味をしてみせるのも一種のスタイルとして認知されてますし、リバーブじゃぶじゃぶでも当人がそうしたいのなら、それで全然オーケーなのではありましょう。私自身はドライ主義者なので、リバーブなど足さずに済むならそれが一番良いと思ってますけど、それでも「聴きやすさ」を考慮するなら少しは足した方が良い。リバーブには音を「快い」ものに変える効果がある。それは実際たしかな事のようです。

 リバーブ音の実態はノイズであるとも言われます。とくにHallとかLongタイプの、長い残響音の終端=消え際を拡大してみると、それはホワイト・ノイズ的な音の塊になってしまってる。テープ録音時代は、テープ自体が持ってるヒス・ノイズというバック・グラウンドにリバーブの消え際がスムーズに溶け込んで、それが独特の心地良さを生んでたのではなかろうか云々。
 アフリカ、インド、日本等で用いられる民族楽器・伝統楽器にはさわり等と呼ばれるノイズ発生装置が取り付けられてるものが多い。西欧にはそれがない。というのもよく言われる事ですが、西欧では演奏会場=固い石の壁と高い天井を持つ建築が、リバーブ=ノイズ発生装置になってる故、楽器がそれを備えてる必要はないだけであって、ノイズ成分自体は洋の東西を問わずどこでも、多かれ少なかれ必要とされてるのではなかろうか。
 ストラディバリウスだって、それを例えば音響実験で使われる無響室で弾けば、弦を弓で擦るギーギー音がするばかりで、まるで良い音ではない。西欧の楽器は演奏会場が生み出すリバーブが加わる事を前提にして設計されてる。
 アフリカの音楽は屋外で演奏される事が多い。日本の建築は音を反響させない素材を多く用い、気密性は低く天井は低い。いずれも音響的にデッドな環境で演奏される故、こういう所で用いられる楽器はそれ自体にノイズ発生装置を備える必要がある。
 ノイズは、音を快いもの変えるための必須の付属物なのです。多すぎたらいけませんけど。必須アミノ酸みたいなものです。そしてそれは世界中で共通の事なのだけど、生活環境の違い→演奏会場の違い→楽器設計の違いとして表された結果は大きく異なり、だからまるで西欧音楽だけがノイズ成分を排除してるかのように言われるけど、実はそうではない。

 1960年代前半頃までのエレキ・インストは、リバーブをどっさり掛けるのが定番だった。あれも、エレキの音が(当時の大多数の人にとっては)不快なものだったから、そうするのが好まれたのではなかろうか(トーン・ツマミを絞って音色をモコらせる、という手法もありましたけど)。
 しかし70年代以降にはエレキの新奇さは薄らぎ、物珍しいものではなくなり、従って人々はそれを不快とも感じなくなり、(ファズやディストーションを用いて不快さを更に増す手法が一般化する一方で)クリーン・トーンにリバーブをどっさり掛けるスタイルは廃れた。
 そこから時代が何巡もした現在、リバーブどっさりはレトロ感を演出するための手法として定着してる。60年代当時の人々にとってエレキの音は悪い音だったから、それにリバーブを掛けるのを好んだ。21世紀人にはエレキは良い音という通念があって、リバーブどっさりは、その「いわゆる良い音」のバリエーションの一つだと捉えてる。
 だから、リバーブどっさりが好きな人は昔も今もいるのだけど、その「好き」の中身、何をどう聴いてどう価値判断してるのかは、全く異なってるかも知れないのですね。

 西欧の発声法に関して私は無知なので「頭声」についてもよく分かりませんが、これは実際に頭を使ってどうこうするような事ではなく、その人自身の声質=地声を消すという目標を身体イメージに置き換えた標語みたいなものではないかと思う。
 歌手と管楽器奏者は、とくにその演奏術を他者に伝授しようとする場合、身体の内部の使い方を説明する必要が生じる。しかし体内は目で見る事も手で触れる事も出来ないから「こんなつもり」式の説明しか出来ない。そのため「肺を使うのに腹式呼吸」型の用語も氾濫する次第で、「頭声」というのもアタマのてっぺんから音が出てるのではなく、「そういうつもり」の例え話の類なのだろうと思う。
 西欧音楽の演奏会場は先に述べたように、演奏会場にノイズ発生機能が備わってるので、楽器の側のノイズ成分や人声の持つ個性などの雑味は取り除く必要がある。ノイズ成分の多い楽器を残響たっぷりの会場で演奏するとどうなるかは、日本のコンサート・ホールで行われる伝統邦楽演奏会の類で明らかなように(浜離宮朝日ホールでのそれが典型的な例ですが)、ノイズの塊がわんわん鳴り響くばかりで、音楽として聴ける状態にはならないのです。

 地声ではハモれないという問題もあります。ロックや民族音楽では地声で平行三度唱をしたりする事が多いですけど、それは西欧キリスト教会が起源の、いわゆるクラシック音楽でいうところのハーモニーとは少し違うものです。異なる音程を重ねるのは管弦楽法的な興味や必要性があって行われる場合も多く、それが常に和声を指向してるとは限らないし、実際、和音を複数並べただけでは和声(ハーモニー)は構成されない。この点をゴッチャにする人は多いけど、ともかく人声で良好なハーモニーを作り、それを西欧式の演奏会場で支障なく響かせるためには声の個性と雑音成分を消す必要があり、西欧人はそのための工夫を色々してきた。その中の一つが頭声なんだろうなと思います。

 「長唄独特の発声法」みたいなものはありません。少なくとも私は、そういうのがあるという話しを聞いた事がない。長唄はべつにどう唄ってもかまわないもので、西欧式の頭声でも(それがその唄い手の個性だというなら)オーケー。江戸唄の「らしさ」はメロディ型の扱い方(節回し)その他で表されるもので、頭声では長唄らしくならない、なんて事はない(はず)。とはいえ頭声式の発声法をまるで開発しなかったのが三味線音楽で、その理由は先述した通り、残響の少ない会場で演奏されてきたのが三味線音楽ですから、その環境に適してるのはノイズ成分を含んでる発声法の方だからですね。

 しかし、日本の歌にも歌い手の個性を消すための工夫はあります。ノイズ成分は残したまま、歌手の個性というか、「人間性の生々しさ」みたいなものを消してしまうための方法。ざっと思い付くのは、
・祝詞(ノット)とか読経
・連吟
・義太夫節のが典型的な、わざと「喉を潰す」方式
等々。
 ノットというのは長唄の節の型の名称としても用いられますけど、音程変化のない五月雨拍子で唄う、というか「言葉を唱える」式の歌唱法。ですがもともとはその名の通り、神社の神主さんが祝詞(のりと)を読み上げる時の口調の事。読経は仏教寺院で行われる祝詞みたいなもので、どちらも、人間的な生々しさを消した方が宗教行為には相応しい故、そういう発声法(というよりも朗誦法)が工夫されたのだろうけど、これらが芸能にも取り入れられてる。
 連吟というのは同じメロディを複数人がユニゾンで唄う事で、これは人力で作るダブル・トラックみたいなものです。ただし、同一人物ではなく別々の個性が混ざり合うのでダブル・トラックと全く同じではないですけど、それでも個々人の個性を消し去る効果はある。
 祝詞・読経・連吟はロボ声的なのでもある。あるいは(棒)である。ボコーダーとかボーカロイドを好む日本人は多いですけど、そうなる下地は、日本の風土の中にもともとあったのではなかろうか。

 義太夫節の「喉を潰す」というのは、修行の初期段階でわざと過大なプレッシャーを声帯に与え、それで「喉笛が切れて血が出て」、その傷が固まる頃にはあの独特のガラガラ声になるっていう、つまりわざとポリープを作るような無茶をするらしく、しかしなぜ義太夫節の人は、そんな非人間的な修行を行うのか?
それは、非人間的な声を作るためです。ではなぜ、非人間的な声が必要なのか?
それは、義太夫節の太夫は一人きりで、老若男女の全ての役を演じ分ける必要があるからです。
 若い女性や子供の役を演じるなら甲高い声を用いるべきだ、という考え方もあります。「声音(作り声)」を用いる行き方ですね。声音の方が芸能としては分かりやすいのではある。また、歌舞伎女形のように、演者が複数いる中での女役専門というなら、作り声でもまあまあ可。しかし、一人の演者が複数の役を演じ分ける場合に声音を使うとたいていは、飽きられやすく、安っぽい芸になりがちです。
 落語では声音を使う噺家とそうでない人とがあって、声音を使うのはお軽い芸風、そうでないのは本格派と、まあ概ねそういう分かれ方になると思う。橘家圓蔵(月の家圓蔵)はマンガ落語みたいなスタイルだけど声音は控え目で、ああ見えて実はわりと本格派。実際、面白いし。
 義太夫節の太夫は、普通の人間のとはまるで異質な声で物語を語る。義太夫の声は一応は人間の声であるけど、その太夫本人の個性すら失ってしまったような、いわば匿名的な、いわば「誰のものでもない声」であり、ロボ声的なものでもある。

 義太夫節の太夫は、そのガラガラ声のまま、語り口の調子の違いだけで様々な役を演じ分ける。なんせ一度潰してしまった喉だから、声音を使い分けたりは出来ないのである。具象性の不足は、聴く側が想像力で補う。というよりも、聴衆各人が自前の想像力で「補いたい」という気持ちになるように誘導できるのが名人なのである。そして、演者が全てを細かに描いてみせるより、不足分の補充を見る側にゆだねてしまう行き方の方が、より多くの満足感を生じさせる。なぜなら聴衆の側からすると、想像力を介して演目に参加し、具象性の不足分を自分なりのやり方で補いながら(あるいは解釈しながら、あるいは二次創作しながら)見物した方が、語られた物語を自分自身の体験として受け止める(内面化する)度合いが高まりますので。
 具象的な描写を排するのは、能舞台の鏡板=松の木一本を全ての演目の背景として汎用する象徴主義と同じ路線だと言えなくもない。能の役者も声音は用いないですね。若い女の役でも、それを演じてる中高年男性そのままの声で言葉を発する。ただしそれは祝詞に似た、リアリズム的な要素の全くない朗誦法によって行われる。

 具象的な描写をし過ぎない方が良いのはアニメ等でも同じで、話しの内容を丁寧に描く「説明的」な作品は、見終わった後に「なるほど」とか、悪くすると「あっそ」というような感想、それ以上のものを生じさせない。ところが例えば、古典芸能の面白さを、それに興味のない現代人にも伝えたいと考える啓蒙家の中には、
「歌舞伎は、実はとっても分かりやすいんですよ☆」
系の事を言って、演目の中身を懇切丁寧に解説してくれたりする人が多いのだけど、「分かりたい」とも思ってない側からすると「分かりやすさ」を説かれても困惑するというか、正直うざい。だいたい、こういったのはどれも作り話お伽噺なんだから、それらの中身が理解出来るかどうかなんて本当はどうでもいいのである。
・「分かりやすい芸風」の方が、物語の結末までをすんなり知るのは容易である。しかし「知る」というのは、一度知ってしまえばそれでお終いである。
・(想像力を介するなりなんなりの方法で)聴衆が演目に参加する「体験」は、(それが楽しい体験であるなら)何度繰り返しても楽しい事である。
 いわゆる古典芸能とは基本、古くからよく知られた物語を繰り返し上演するのだから、「何度でも見たい」と思わせるものでなくてはならない。そうでないと存在意義を失う。そして、分かりやすいというだけでは何度でも見たい芸にはならないのである。
 もっとも「お子様アニメ」の方面では、分かりやすさは重要である。だから、分かりやすさを前面に出して古典芸能の啓蒙をする人の芸能観はお子様アニメと同等なのであろう。「歌舞伎は大人の趣味」みたいな事も言われるが、それの宣伝隊の人のアタマの中身は幼児的。だから笛吹けど踊らずなのも道理で、結果、古い時代の芸能は廃れゆく一方である。
 いわゆる古典芸能の関係者は子供の頃から好きでもない稽古事をイヤイヤ習わされ、その流れでこれの専門家になったという仁も多いから、中高年を過ぎても坊ちゃん嬢ちゃんの気分が抜けず、実は本当に歌舞伎等が好きなのでもなく、かといって他に本当に好きな何かがあるでもなく、だから人間社会ではなぜ芸能などというものが必要とされるのか、その本義を知る機会もないまま生涯を終えてしまう人も多そうです。

 声音=作り声は洋楽でも用いられます。代表的なのはボブ・ディラン唱法だと思いますけど、彼があのスタイルに至った理由を私は知りません。B.ディランより以前にはカントリーの、とくにノベルティ・ソングと呼ばれるカテゴリの小ヒット曲には作り声を用いたものが多く、ハンク・ウィリアムスはノベルティ歌手ではないけど、彼の歌声はやや作り声っぽい。B.ディラン唱法というのも、カントリー界でのそういう一種の伝統があったうえでのものなのかなとは思います。

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 とまあ以上、「録音した自分の声を聴く不快感」に関わる蘊蓄話し(&そこから枝分かれした四方山話し)をやたら並べてしまいましたけど、私の今回の作例の課題の一つである「唱法改造」とは直接関係ないものが大半でした。ただ、こういった諸々を一旦整理しておくのも便利なもので、私は自分の声の録音を聴くのが不快だから唱法改造したいのだけど、こと三味線音楽の録音に関しては、不快さを和らげるための方策諸々のうち、
・ダブル・トラックは、連吟を擬似的に作る場合以外は用いれない。
・リバーブは、私はドライ主義者だから却下。
・コンプ等で極端に加工するのは、三味線音楽には似合わない。
・頭声は試みる価値ありだけど、具体的にどうしたら良いかまるで分からない。
・声音は、唱法改造を色々試してもダメだった、という時の最後の手段として残しておこう。
と、以上のように一覧され、自分がすべき事は上記の中には無い事が分かる。さてここからが本題。私が唱法改造したかった点は主に、

1.力み(りきみ)を無くす
2.明るい声を使う

の2点。
1.についての具体策は主に、今までは高音=裏声の音域を喉を絞って出してたので、それを止める。
2.についての具体策は主に、口の開きを大きくするのと、伏し目で唄わないようにする。

なぜ「力み」を無くしたいかというと、
「聴いてダサく、唄うに不自由」
だからです。力まないと唄えない、声が出ない、という状態のままだと、何年たっても「自分で聴いて不快」な状態から抜け出せないと思う。
 「明るい声」にしたいのは、暗い声を長時間聴いてると気持ちが「鬱」になるからです。「キャラとしてのネクラ」と声質の明るい/暗いは別物で、例えば私は二次元上のネガティブ・キャラは大好きだけど、それはデジタル・アニメ特有の硬く乾いた画質と派手な色彩の中に配されてればこそのものなわけで、音色に関しても、私は明るい音- -倍音が多く、アタックが速く、余韻が長すぎない、という物理特性を指して明るいと評言される、そういうタイプの音- -が好きだ。ミックスに対してドライ主義者なのも、そちらの方が音が明るいからです。
 音色の明暗と、曲の(内容とか雰囲気とかの)明暗とが食い違ってるのは珍しい事ではなく、例えばビートルズは(とくに初期のアルバム3枚目くらいまでは)曲調は概ね明るいと言えるだろうけど、サウンドは(私にとっては)暗い。だからビートルズを聴いてると鬱になる。逆にメキシコの音楽には暗い曲調が多いけど(マイナー・キー率高いし)、歌と楽器の音色はカラっと乾いてて明るい。私的な好みはメキシコ型の方です。

 私の声質自体は倍音多めで明るい方だと思うのです。しかし鬱な印象がある。あるいは「重い」。そうなる原因は口周りにあるのではないかと取りあえず仮定して、それの改善を試みたわけです。
 それと不思議なもので、演奏中の目線の置き方は音に表れるように思えます。もしかするとギターでもそうなのかも知れない。少なくとも目線の据え方は体全体の姿勢に影響する。そのせいでギターの音色がガラッと変わったりはしないだろうけど、録音作業を何時間か続けた最後の方での疲労度とか集中力の残量は、姿勢の良し悪しで大きく違ってくる。その結果、「その日一日分の成果」の良し悪しも違ってくる、という事くらいはありそうだ。
 唄の場合はもっと端的に、例えば目線の位置で顔の表情が変わるから、それに伴って口周りも変わるであろうと、これはまあ理屈で考えてもありそうな話しで、更にそれ以上の何かもあるかどうか。ともかくそういう方面にも気を使ってみるべきなのだ。

 以上のような事を考えつつ録った今回の作例。とりあえず喉を絞る癖はかなり抑えられるようになったと思う。喉を押し潰さず、裏声を息の早さで抜く。ただ、喉を潰さないためにも力を使ってしまってるので、結局「力んでる」という印象は無くなってないかも。

 「明るい声」という件については余り改善されてないと思う。録音作業を進めながら、口の開きを大きくしてみたのを聴き返すと、それは「日常会話そのまんま」みたいな声に感じられ、あまり開けすぎるのはNGかななどと小修正も試みてるうち、何だかよく分からなくなってしまった。喉を絞らないというのは「口の中を広く使う」という事とも関連すると思うのだけど、
・口の中が広く、口の開きが狭いと「作り声」っぽくなる。
・口の中が狭く、口の開きが大きいと「日常会話そのまんま」みたいな声になる
のようにも思われる。

 発声法とは少し別の事になるのだけど、私は裏声と表声の変わり目をスムーズに切り換えられないのでそれも改善したい。「吾妻八景」の二上りは、その点がけっこう厳しい題材であった(格好の教材であるとも言えますが)。
 私の裏表の切換ポイントはE4〜F#4近辺で、男声としては標準的な位置だと思う。それでこの曲の最後の部分、「含む矢立の隅田川」の
♪す、みーーー い、い い、い
っていう個所の節はEb4とG4を行き来する。つまり裏と表を交互に切り換える。しかも言葉が「い」という、口の中が狭くなり、そのため喉も閉じやすい音が当ててあるので、これけっこう難しいです。
 ちなみに調子は四本で、これを六本にまで上げれば両方の音が裏声領域になるので、その方が唄い易い。しかしそれは別の個所に支障が生じるモグラ叩き的解決法でしかない。

 「含む矢立」の少し前、「道の碑 露踏み分けて」も、母音は「い」が多用されてる。母音だけを書き出してみると、
「いいおいいうい ううういあええ」
しかもこの「い」の大半が裏表の境界付近の高さである。江戸時代の人にとってもたぶん、ここら辺が裏表の切換ポイントだったと思う。そこにわざとのように、喉を絞ってしまいやすい「い」ばかりが当てられてるのは偶然だろうか?
もしかするとこの曲の作者は、唄方にイヤガラセをしたかったのだろうか?
そうではなく、この個所を難なく唄うためのテクニックがあるのだろうか?

 現代人も江戸人も声域は同じだったかは分かりませんが、日本国内での時代比較ではなく、西欧クラシックと三味線音楽の声域を比べたり等々の事をしてみると、人間の声域は人種や時代の違いなく、わりとどこでも共通であるように思われてきます。西欧のテナーの声域は概ねC3〜C5(D5)で、これは本調子四本の長唄と全く同じですから。そしてD5くらいまでなら、わりと誰でも(まっとうな訓練を行えば)出るようになるものです。それがいわゆる良い声キレイな声かは別にして、ともかく出る出ないという事でなら、わりと誰でもC5〜D5くらいなら出る。
 それより上のF#5くらいまでを、安定的に、金切り声ではない独特なファルセットの声質で出せる人は一種の特異体質で、滅多にいないんだけどたまにはいる。それを西欧ではカウンター・テナー、日本では(江戸浄瑠璃の)甲唄い(かんうたい)等と呼んで特別な役割を受け持たせてる、という点も日本と西欧で共通。ちなみに、この高さが必要な西欧クラシックの曲にどんなのがあるか私は知らないけど、たぶんごく少数だと思う。三味線音楽では常磐津「松島」の最初の方、
「旅寝の日さえ浅香山」
で(調子四本なら)F5を使う個所がある。あとは「関扉」の墨染の出その他でも使われるかも。他はよく知りませんが、けして多用されはしてないと思う。
 清元には、私の知ってる限りではカウンター・テナー声域が使われる曲はないです。志寿太夫は声がものすごく高いみたいに言われますけど、声質が「すごく高い感じがする」だけで、実際は標準的なテナーの範囲内に収まってます。
 伊十郎師の声質は本来、バスかバリトンのものだと思う。低い音域を太い声で唄えないと立唄は勤まらない。そして伊十郎師はそっちの方の押し出しが良く、テナー音域はあまり得意そうではない。それでもまあ一応C5までは使えてるし、三味線音楽の基準からすると彼の甲は「美声」なのでもある。志寿太夫と同じで、無理に出してる方が「高い感じ」がしてウケが良いのかな。長唄人の中でテナー体質的なのは松島庄三郎さんのような、つまり二枚目専門の人。
 吉住慈恭師の声域は伊十郎と同じで、つまりC5まで使うし、むしろ伊十郎よりも高音域はスムーズに出てる。だけど伊十郎の方が「声が高い」感じがいたしますでしょう?これは先に述べた声質の明るい/暗いの違いでもある。録音した時の年齢が慈恭/伊十郎ではかなり違うという事もありますが、慈恭師の声は、歯が抜け、顎を支える筋力が弱り、口角周辺が垂れ下がってしまった人のようだ。慈恭師の唄は素晴らしいものなんだけど、こと踊るためのものとしては圧倒的に伊十郎師の方が良いわけで、慈恭師の唄では(少なくとも歌舞伎ベースの振付では)踊れない。
 岡本文弥90才の時の録音は(「ふるあめりか」他)その年齢なりの声質だけど、非常に明るい声だと私は思う。彼の歯は晩年まで「自前」だった。呼気にも勢いがある。

 ともかくだからつまり、江戸時代の人にとっても「吾妻八景」二上り最後の「い、い、い」は裏表を交互に使う、唄い難い個所だったのではなかろうかと思うわけです。いやもしかしたら、テナー体質の人にとっては難しくないのかも知れない。あとここ、大きな声でハキハキ唄うならとくに難しくないです。ともかく問題は、ここが私にとっての難所で、これを切り抜けるにはどうしたら良いのか?
1.裏表の切換をスムーズにするためのエクササイズを地道に行う。
2.母音に細工をする。
 今回は2.の方にしときました。というか切換エクササイズはまるでやってません。低い方(Eb4)の「い」を、聴感上「い」に聞こえる範囲内で、口を少しだけ「い」とは違う形にする。たぶん二重母音的な音になってると思います。切換エクササイズは今後の課題。ですがこの、裏表の切換も含め私の歌全般に欠けてるのは柔軟性だと思う。「節を転がす感じ」がまるでない。こんなんでは江戸唄は唄えない。ただ、そういうのは体質的な問題や素質の有無も大きく、望んでも得られないものを追いかけるのは徒労でしかない。だから私の喉笛を柔軟にするのが無理なら早々に見切りを付け、柔軟でないなりに唄う方策を探るべきである。

 しかしそもそも、長唄とは電気拡声が無かった時代に広い会場で演奏するための音楽で、だから発声法もそれに対応した方法を用いるのだけど、私のやりたい音楽はマイクありきになってからの方が中心、なのだとしたら、長唄式の練習ばかりしてるのもどうかという気がする。

 私の唄は、元々は三味線の付けたりで始めた事で、だから当初は長唄式に則り電気拡声を用いない発声法になるよう努めてたけど、、今はもう三味線の稽古はしてないのだからマイクありに専心したって良いわけだ。それに三味線音楽だって、その全てが声を張り上げる式でなく「四畳半」のもの(小唄)もあるのだし。

 唄に限らず楽器はなんでも、より良い音を鳴らすための原理は二通りに分かれる。
1.鳴りにくい発音源に強い圧力を掛けて強制的に鳴らす
2.鳴りやすい発音源を最低限の力で楽に鳴らす

 どちらにも技術は必要で、楽に鳴らすのが簡単という事ではない。そもそも「鳴りやすい発音源」は入手し難いもので、また、鳴りやすいものに過大な力を与えると音が割れる等の不具合が生じやすく、 鳴りにくいのを力業で鳴らす方が、(それを鳴らしきる力量さえあるなら)より大きな音量を得やすい。
 そのため、電気拡声が無かった時代に広い会場で演奏するのに必要な大音量を得るための技術は常に概ね1.の方だったけど、私的な場で歌を歌い聴かせる事も当然、有史以前から行われてたわけで、しかしそういうのとも少し違う半・公的な至近距離で演奏を行う場が西欧ではサロン、日本では「お座敷」として、遅くとも18世紀までには定着してた。だからSPレコードの録音方式が電気式になった1920年代、そしてラジオ放送と共にマイクが普及し始めた1930年代、その頃までには至近距離での演奏術も既に100年分以上のノウハウの蓄積があり、だからこそビング・クロスビーや藤山一郎は比較的短期間でマイクを用いる新唱法”クルーナー・スタイル”を身に付けられたのではなかろうかと云々。

 そんなわけでじゃあ私も今後はマイク式で歌いましょうと、そうすんなり移行できたらいいですけど、先述した通り「楽に鳴らす」の方が「簡単」なのではなく、とくに歌では自分の素質と適性とによって進むべき方向の大枠が予め定められてしまってる度合も大きいと思う。私の喉は、強い圧力を要するタイプのような気がする。あるいはそういう癖が付いてしまったのかも知れない。癖なら取り除くべきだが、実感として、やはり癖ではなく体質のような気がする。

 ギターに関しては私の場合、(電気拡声が無かった時代のサロン楽器である)アコースティック・ギターが自分の技術面の基礎になってると思ってる。歌も、伴奏は三味線一本きりで歌は裸同然というスタイルのを数年間練習したのは良い経験だったと思ってる。それを踏まえたうえで、更に自分にとってより良いスタイルが見つけられたらラッキー。ダメもとでそれをナニしてみましょうという考えです。私の喉は強く圧力を掛けないと鳴らないタイプだと、そう考える理由は、
・裏声が、いわゆる半裏しか使えず、抜く感じの裏声を使えない。
・音の立ち上がり(アタック)が鈍い。
・音の止め方がブツ切りで、スっと尻つぼみ(速いフェードアウト)に出来ない。
 以上の症状を総合して判断すると、私の喉はどうやら息の圧力が一定値以上ないと鳴らないようで、息の量に応じて音量が大小するのではなく、ある閾値を境に鳴る/鳴らないのどちらかに転んでしまうのではなかろうか。ナチュラルなコンプレッサーが掛かってるようなものだと言えなくもないが、ぶっちゃけドヘタだって事ですかそうですか。でもこういう声を、
「重い声」
「濃い声」
だと呼べなくもないような気もする。いやまあ出来れば自分を肯定的に評したいので、なけなしの語彙集から使えそうなものを次々選び出してみるテスト。まず「重い」という点について言うなら、声に限らず「重い音」一般はスピード感を醸し出すのに適してる。なぜかという理由は略。
 「濃い」に関しては、私は例えばルイ・アームストロングとかワンダ・ジャクソンとかの濃い声が好きなので(彼らの場合は声がというより、芸風そのものが濃いかも知れませんが)、濃い声も良いじゃないかとは思う。ただこの「濃い」というワードは時に、「キモい」と概ね同じ意味合いで用いられる場合もあるので、
「私の声は濃いんです」
みたいな言い方はなるたけ避けるべきであるし、やはり出来れば自分の声が「濃い」という印象を生むものであって欲しくはない。自分で聴いてて疲れますし。

 近年一般的に用いられてる「キモい」という語は、1970年代には既に一部で用いられてたとされるが、全国的一般的に定着したのは90年代以降。ちなみに「オタク」も70年代に既に用いられてたけど、これが「キモい」と結び付き合成語化するのはもっと後の事。
 ともかく、誰もが「キモい」を用いるようになったのは比較的近年になってからで、それより以前、現在の「キモい」に相当する意味内容は別の語で言い表されてた。それは(現在のキモい概念ほど単純整理化されてなかったので)数種類が適宜使い分けられ、その中の一つが「濃い」であった。そして、「キモい」が定着する前の時代が青少年期だった世代の人、つまり80年代に20歳前後=2010年代現在およそ50代以上の人々は、今でも「キモい」ではなく「濃い」を使う事も多い。即ち職場等にて高齢者同士が、
「○○さん、濃い〜☆」
みたいな会話を交わしてるとしたら、それを現代語に翻訳すると、
「キモいからあっちいけ」
等になる。というような事がありますんで、私の場合、
「自分の声、濃いよなあ」
とか言って済ましてるのもいかがなものかと思うわけです。まあ、キモいものに対しては「キモい」と、そういうミモフタモナイ言い方をするのが現代人で、それに対しザ・昭和な日本人はもう少し遠回しな、含意のある、ダブル・ミーニングなスラングを用いてた。しかしそれはそれで面倒くさく、しかも回りくどく分かりにくい優しさは時に「皮肉が通じない系の人」を泳がすままにもする次第で、他にも例えば、
「○○さん若ーい☆」
の類も、こんなのは人と人とが顔を合わせたらまず挨拶、その次に天気の話しをするか軽く「誉めジャブ」を交わすかという、会話の流れのお約束定型文の一つにすぎないのだけど、これをマジで受け取ってしまう言語能力の欠損者もいて、またそういう人に限って「世直し提言」の類をせっせとブログに書き連ねるのが大好きっぽい昨今である以上、パチンコ等のいわゆる底辺の趣味には他にどんなのがあるかという話題で、
ブログ(笑)
とされてしまうのも致し方なし。だから私もここでこうしてオンラインストレージをタダ使いさせてもらってる手前、同じようなゴミ文を書き溜め続ける日々ですが、言葉の含意を汲めない人は人間世界の片面しか見てないわけで、つまりそういう人は世の中の重さを実際の半分にしか見積もってない故、舌先三寸のお軽い提言で世直しも可能と、案外本気でそう思ってるのかも知れません。ブログのプロフに、
「私は濃くて若い50 over」
とでも書いてそうな御仁が最近の日本語は乱れてるだの「正しい日本語」はどーのこーの的な、これも実にザ・昭和なネタを講釈してる例もあるのだが、日本語が不自由なくせにそれにチョッカイを出すなど図々しいにも程がある。ともかく「濃い」は「キモい」と近似的なワードで、私は自分の声を聴いて「濃いかも」と感じるわけで、やはりそれはちょっとやばいかも。

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 とまあそんなこんなでの一年ぶりの唄の録音。唱法改造の成果はどうもイマイチでしたが、これにめげず少しずつでも直すなりを続けたいです。ちなみに一年かけて改造したと言っても、その間ずっと毎日コツコツ練習してたのではなく、逆に半年間ほど全く唄わない期間を設け、それから少しずつ復帰してくという段取りでした。また、過去に録音した唄は、唱法改造すると決めて以降一度も聴き直してません。これは意図的に「聴くのを禁じた」に近い。まあ自分の声を聴くのは不快なので自然そうなるのでもあるけど、たまに聴き直したくなる時もある。
「どの程度、良くなってるかな」
というのをチラっと覗き見したくなるような気分ですね。しかしそれが良くないんだと思うのですよ。唱法改造中に過去の録音を聴き直さないと決めたのは、それを聴いてしまうと、
1.悪いイメージが固定されてしまう。
2.過去の自分と今日の自分との、A/Bチェック型の比較を始めてしまう。
という理由からです。耳に入るものがイメージを作る。そしてイメージが体を動かす。だから、自分のでも他人のでも、とにかく「よくないもの」を聴いたり見たりするのは悪影響しか生まない。過去の「悪いイメージ」を聴いて、それを基に「少しずつ改善」とかは無理なのです。とくに唱法改造というような、それまでのやり方を大幅に変えようとしてる場合はまず、自分の耳の中に堆積してしまった自分自身に対する「悪いイメージ」を消す(忘れる)ところから始めなければならない。改造途中に過去のを聴き直したりしたら忘れようという努力が台無しですから、当然これも封ずるわけです。しかしこの考え方は、
「レコーダーは、本当にトレーニング・ツールとして有効なのか?」
という疑問を生じさせる。自分の演奏を録音して、それを聴き直して悪いところを知ってそれの対策を立てるという、現在多くの人が採用してるであろうこの手順は、本当に効果的なのだろうか?結論を先に言うと、これはあまり良い方法じゃないですね。その理由は;

録音を利用する方法が普及してるわりには皆さん下手なままである。

というのも突き放すような言い草ですが、本当に上手くなりたい人(上手くなれる人)とは自分を突き放せる人である場合も少なからずやですし、本当に上手くなれなかったとしてもやってる事はたかが音楽なのですから、別に気にしないで下さい。楽器が上手くなれない人はその替わり、上手くなれない理由付けを考えるのが上手くなってたりするもので、録音物を介して自分を客観視できるかどうか自体が既にその人の資質に左右されるというか、出来る出来ないの対象項目なのですよ。録音したのを聴いて、ぺちゃくちゃ無駄口叩くばかりの人もいれば、必要以上に落ち込む人もいれば、横のものを縦にする式整理整頓型技術改善にばかり気を取られる人もいるといった具合で、だから録音物を役立たせるには、何かもう一つ工夫が必要である。そしてその工夫の具体的内容は人それぞれ、自分で探し出さないといけない。他人のやり方は参考になりません。

 エベレストというものがあると知って、これに登ろうと思った。と、そう決意したというだけでもう登れたような気になれる頭のアッタカイ人というのはいるもので、しかしある時、自分の実力が高尾山もやっとこなレベルだと知らされる。そこから一念発起して「努力」を始めるんだけど、いかんせんエベレストは分不相応な望みでしたわな、というのを認めまいとすると、昨日の自分と今日の自分を比べ、細かな違いを数え上げ、それに一喜一憂するような、出来ない自分と「じゃれる」のを「努力」と呼び換える式の無限ループに陥ってしまう。それに救いの手を差しのべるのはお釈迦様が蜘蛛の糸を垂らす的失笑譚で、誰がそんな事をするものか。ただ、その無間地獄に落ちかかってる人を見かけたらそっちに行ってはいけないとの忠告はするべきで、故に私も以上のような駄文をここに書き連ねてみた次第。

posted by ushigomepan at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | マイク・テスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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